反「学力」

反「学力」の教育へ

 今日の学校の学びの貧困は、「学力」を持ち出すことによって広まっている。そこで、某新書のタイトルを真似て「学力っていうな」といいたい。もう少し、「学力」と言わないことの積極的な意味を挙げておきたい。

 貧困な学びが「授業時数増」によって学びの貧困さを覆い隠そうとしている。「学びの貧困さ」を批判することなく,「授業時数の少なさ」という表面的なところだけに目を向ける。
 そうした状況の中で「貧困な学び」がいつしか支持を得て「状態化」していく。学びの貧困さは見えなくなり,忘れられていく。表面的なところだけで取り繕おうとする。そんな愚かさはこの国の教育改革のなかで繰り返される「歴史」でもある。「学力問題」が俎上に上るとき,それは学びの貧困さを取り繕わなければならなくなったとき。
 「学力」からいったん離れて考えてみる。そんな時間が今一番必要なんじゃないかな。