道徳充実論は間違っている

【主張】中教審 道徳充実へ真剣な議論を

 以前,城丸章夫氏の道徳教育に関する主張を,http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20070531/1180570636http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20070604/1180887839で紹介した。
 城丸氏は,

 さて、時間特設の教育上の危険は、まず第一にこれをめぐる行政指導にある。行政指導によって特定の具体的内容と方法とを現場におしつけようとする傾向があることである。いや、そもそも「道徳」特設の政治的ねらいがここにあったともいえる。「道徳」を突破ロとして、現場の指導の良否善悪に対するいっさいの判定権を官僚が握りたいという意図は、「道徳」問題の発生以来、社会的に周知の事実である。学習指導要領が法的にどの程度の拘束力をもつかが論議の対象になると、当局者は、きまって「国がきめてどこが悪いか。そんな国はたくさんある」と主張してきた。しかし、この場合の「国」とは何であろうか。少数の官僚以外の何者でもない。その官僚が、良否善悪の判定権をにぎり、特定の内容と方法とを直接的に指示することが許されてよいであろうか。指導要領や「道徳」特設を批判する者を目のかたきとして、批判に対する抑圧を企図する官僚があってよいであろうか。少なくとも日本が法治国であり、官僚が公僕であるならば、そんなことを許してはいけない。さすがに指導要領の公式な解釈では、一面では批判の自由を官僚当局も認めている。これは当然のことである。

 しかし、それにもかかわらず、私たちは行政指導による具体的教育のおしつけについての不安を十分にもっている。従来の、どちらかといえば自由な講習会―その講習会では指導要領の批判をする講師もいた―にかわって、全国的に、統制された講習会の開催。すでに指導主事によってなされている職場に対するさまざまな指導。これらは私たちの不安が決して得手勝手な想像ではないことを示している。

 危険の第二は、教科における場合と同じような能率主義が、教師を支配する可能性が強いことである。わかりやすくいえば、「道徳」の指導が、進度によって支配される可能性が濃いのである。日本の教師の伝統的な考え方では、自分が予定したことをしゃべったり、子どもにさせたりすると、学習が「終わる」のである。子どもが何をどれだけ学んだかではなく、教師が何をしたかという進度が問題なのである。いわゆる「新教育」は、この能率主義に打撃をあたえたはずであったが、決定的ではなかった。しかも、とうとうとして改訂学習指導要領の主流をなしてきたのは、能率主義の考え方である。すでに、「道徳」に対する行政指導の重点は、指導計画と称するカレンダーの作製に置かれている。カレンダーには多少の弾力性があるとはいえ、必然的に問題となるのは、「どこまで進んだか」である。また、これらの指導をとおして、三六項目の徳目のうち、いくつの徳目を取り扱ったかということである。徳目を取り扱ったかどうかをチェック・リストによってチェックするというていねいな「くふう」さえ始まっている。「道徳」指導を能率化するための「視聴覚教具の利用」などという研究テーマをもった当局指定の研究学校も生まれている。

 なるほど、指導はすべて効果的で能率的でなければならないであろう。しかし、「道徳」の時間に「友情」の学習が「終わった」とはどんなことなのであろうか。それは子どもが「終わった」のか教師が「終わった」のか。このような指導をつづけるかぎり、「道徳」が修身と似てくることは必然であると考えられる。

 危険の第三は、目標として「徳目」が設定されているという事実からくる指導方法の制約にある。徳目が目標として無意味であることは先に述べたとおりである。しかもなお、徳目が目標とされているのは、子どもを道徳的人間にすることに関心があるというよりは、学習指導の方法を制約する上での効果がねらわれているのであると考えられる。

 私たちは、戦前の生活修身の不幸な事例を思い出さないわけにはいかない。修身科というにせ物の教育に対して、子どもの自治活動を大切にし、日常生活のなかから道徳教育の話題と実践とを拾って来ようとしたのが生活修身であった。一部の教師たちは、当局者の白眼視にもかかわらず、このような形で修身科の否定を試みたのである。しかも不幸なことには、国定修身教科書と修身という特設時間が存在するかぎり、自由な学級の討論も活動も、すべて究極においては教科書の徳目の方向にひきずられざるをえなかった。自治会の討論は修身教科書の徳目を子ども相互がおしつけあいをする場となり、特設修身は、この徳目への至らなさの反省をする場となった。小さな偽善者作りという修身科の矛盾は、拡大こそすれ解消しなかった。目標としての徳目が、ガンとして行手をさえぎっていたからである。

 指導要領の目標としての徳目が、このような役割を果たさなければさいわいである。「生活指導は方法であって目標ではない。目標は道徳である」と特設「道徳」論者は主張している。しかし、かれらがいう目標は、実は徳目にすぎず、かれらがいう生活指導とは権力による行為の干渉のことであり、子どもに対する教育外強制のことにすぎない。

 危険の第四は、第二および第三がもたらす必然の結果として、行為と認識とは、子どもにとっても教師にとっても分裂した二つのものとして現われて来ざるをえないことである。なぜなら抽象的・徳目的認識は、現実的・具体的行為の指針とはなりえず、具体的行為の指針はひそかに他の生活原理や指導原理を導入せざるをえないからである。戦前の修身の二の舞が新しい形で演ぜられる危険が十分にある。すでに、道徳教育はしつけを強化することであり、「道徳」のお話はしつけを容易にするためであるという理解が、古い校長・教頭層を支配しつつある。指導要領が「学校教育の全体をとおして行なう道徳教育をやめたのではない。特設は、ただ、それを補充・深化・統合するだけだ」と当局者がいうとき、現場側における受け入れ態勢は、「全体をとおして」とは全体を一貫してしつけを行なうことであるという理解への強い傾向が存在している。否、しつけという名前で、有無をいわさずに特定行為を強要し、また、このような形で服従の習慣を養成することが、道徳教育の基本的方法であると考えられさえしているのである。だから、体罰教育が各地で復活しつつあるのである。

 特設「道徳」の特設は、百害があって一利がない。政策上の悪意でなければ、過誤である。あやまちを改めることを恐れてはならない。今日の国民は、政府に道徳の判定をしてもらうような奴隷ではない。今日の子どもたちが不良になったりするのは、徳目を知らないからではなく、生活への意欲を失いがちであるからである。生活のなかで、何を自己の未来のよりどころとしたらよいのか、それが見出せないで苦しんでいるのである。道徳指導は、子どもたちの具体的生活のなかから、国民的利益と、労働の意義とを発見させ、国民のなかでの自己の位置と役割とを発見させることを抜きにしては成立しない。特設「道徳」の特設は、こうした子どもたちの苦しみを無視して、顧みて他をいうものである。こういう特設はやめねばならない。

と主張している。城丸氏の主張のなかに道徳教育の問題点はきちんと指摘されている。今主張されている道徳教育充実論は,その問題点を克服するようなものではない。