こういうことが起こるのは分かっていたこと
文部科学省が先月実施した全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)の直前、広島県北広島町教委が、町内21の小中学校に個別に問題集を作成させ、指導結果を同教委に報告するよう指示していたことが分かった。
全国的な学力調査の実施方法等に関する専門家検討会議の第3回会合では、
客観的なデータを取ることが重要である。悉皆調査で一番懸念されることは、成績の悪い子どもを休ませたり、学力調査の結果において高いパフォーマンスを得るための特別な努力をすることで、データが変質してしまうことである。取ったデータがすでに変質してしまっていれば、それをどれだけ分析しても意味がない。
ということが指摘されている。そういうものに対する対策がきちんと事前に講じられていたとは思えない。もし、対策が講じられていないとすれば、データの信頼性、データの意味は変わってしまう。
また、記事にあるような事前の対策を行うことを咎めることができるだろうか。全国学力テストの結果は文部科学省の意図はどうであれ、相対的な評価のためのデータに利用される。
http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20060428/1146157900で引用した論文はイギリスの状況をよく描写している。この中で、
試験の結果が適切な基準に達しなければ「咎め」られ、学校は、義務教育最終学年における達成結果のナショナル・リーグ・テーブルで甚だしく落ちぶれるような場合は、ステータスの低下、そしておそらくは在籍者数の低下というかたちで代償を払うのである。したがって、教師たちが「テストに向けて教え」たり、境界線上にある生徒たちを指導したり、注意を注ぐことに「値する」個々人に焦点がおかれ、他の関心を捨て去るよう動機づけられていることは驚くにあたらない。
と述べられている。だから、事前の対策が行われることはなんら特別なことではないし、それを責めても仕方のないこと。
ここで何度か指摘したが、全国学力テストの目的をきちんと文部科学省は示さなかった。だから、テストの結果をどのように解釈するのかというコンセンサスもない。
事前にそういうことをきちんとしないで、後からそういう解釈はしてはいけないとか、データをそういうものに利用してはいけないと言っても後の祭り。データが出ればこれまで同様、様々に解釈され、議論は堂々巡りをするだけだ。
結局、全国学力テストはお祭り騒ぎに過ぎなかったのだろう。そういうのに振り回されるより、地道な改善の積み重ねのほうがよっぽど成果を挙げる。