教育と心

教育の失敗という教育神話

 http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20061130/1164862723で紹介した広田照幸氏の論文からの引用。

 青少年の起こす事件をすべて「教育の失敗」とみなす発想は、青少年の生活全体を、大人が管理・コントロールできるし、すべきだという、ある種の社会的な暗黙のコンセンサスがあることを意味しているのではないだろうか。

 会津若松の事件では、教育の問題として語られるだろう。そこで語られることは、教育が少年の心の闇を作り出した。つまり、教育の失敗が今回の事件を生み出したのだということ。そして、その後に必ず奇妙なことが起こる。少年の心の闇を作り出したはずの教育によって、今度は少年たちの心を闇から開放しようとする。いわゆる「心の教育」が主張される。
 広田氏が「教育の失敗という教育神話」と呼んでいるのは、教育の成功・失敗のどちらにしても、教育によって少年の心はどちらにも操作できるはずだという暗黙のコンセンサスのことだ。

心の問題へ向かう教育言説

 沖津由紀 「「学力」をめぐる教育言説の変貌‐50年代「学力低下」期と70年代「落ちこぼれ」期の比較を通じて‐」『日本教社会学会大会発表論文集』 第46巻 1994年 のなかで、沖津氏は、

 教育システムは、少なくとも教育言説という手段を通じては、自らを反省し、再定義し、自らの存在の妥当性を確認する作業を十全には行っていない

ということを指摘し、

 すでに教育システム(教育言説)は過剰なほどに「子ども」へ、「子ども」の内面=「人格」へと向かいつつあるということである。もはやそこにしか活路を見いだせないかのように、教育システムは執拗に「子ども」の内面へ、その人格へとまなざしを向け、それをまさぐろうとしている。それは「子ども」にとって不幸なことであるだけでなく、教育システム自身にとっても不幸なことであろう。なぜなら「子ども」というパーソナリティ・システムの複雑性は、硬直化した教育システムの手に負える類のものではないと思われるからである。教育システムにとっての「子ども」は永遠にその手をすりぬける存在であり、それゆえに「子ども」を捉えきろうとする教育システムの試みはやはり悲痛なスローガンの域を出ることはないであろう。

と指摘する。沖津氏は、教育システムが教育言説ではなく、子どもの内面に目を向けることで、「自らを反省し、再定義し、自らの存在の妥当性を確認する作業を」行っていることを指摘する。
 それは、教育システムの抱える問題を、子どもの内面の問題へとすり替え、その問題の解決を、子どもの内面を操作することで行おうとしている。そして、教育システムは子どもの内面を操作する手段とすることで自分の存在意義を獲得しようとしている。
 これは、沖津氏が指摘するように子どもにとって決して幸せなことではない。

子どもの心と教育

 広田氏は冒頭に引用した同論文の中で、

 子供たちは必ず、大人の教育的配慮の網の目をすり抜けていくし、「教育万能神話」にもかかわらず、多くの事件は、教育とは無関係に今後も起きていってしまうだろう。

と指摘する。また、沖津氏は、

 「子ども」というパーソナリティ・システムの複雑性は、硬直化した教育システムの手に負える類のものではないと思われるからである。教育システムにとっての「子ども」は永遠にその手をすりぬける存在であり、それゆえに「子ども」を捉えきろうとする教育システムの試みはやはり悲痛なスローガンの域を出ることはないであろう。

と指摘する。
 教育によって、子どもの心は操作可能であると信じ、操作しようとしても子どもたちはそこから逃げ出そうとする。だとしたらどうするのか。広田氏は、

 むしろ、子供一人一人に、大人の理解不能・介入不能な、「心の闇」があることを認め、すべてをコントロールできないとすると、何がどう可能かを考えるところから、青少年について議論する必要があるのではないだろうか。

という。これから、様々なところで、少年の心の問題が議論されるだろう。そのときに、安易に「心の教育」などというものを持ち出すことは避けるべきだ。また、理解不能であるとし、不安だけを募らせるようなことも避けるべきだ。