問い直したり、考えたりすることがあってこそ意味がある

教育再生会議:大学入学前に社会活動 「ギャップイヤー制度」提言へ

 教育再生会議が導入を提言しているギャップイヤーや都教委の奉仕活動の必修化。総合的な学習の時間に共通している問題は、体験とか経験そのものが価値のあるものとして考えられ、それをするかしないかが評価の基準となっているということ。そして、経験や体験から何を得たのか、学んだのかということを問うことも無く、そこで得たことや学んだことをどうやって外とつなげて広げていくかという視点が無いということだ。そして、何を得るのか、何を学ぶのかがすでに決められているということ。
 例えば、記事では

 英国では大学進学者の2割前後が中途退学しているが、ギャップイヤーを活用した学生は目的意識が明確になり「退学率は3〜4%」(内閣官房)という。

というように書いてあるが、ギャップイヤーが目的意識を明確にするのではない。ギャップイヤーを通して得たことや学んだことが何かを問い直す機会があるから明確になるのだし、それをこれからどう生かすかを考えるから明確になる。ギャップイヤーが導入され、ボランティアや就業体験をすることが良い事であるとされ、問い直したりする機会を設けなければギャップイヤー導入の意味は無い。
 もし、教育再生会議が記事にあるように「再生会議は道徳の教科化など、規範意識の醸成に重きを置いており、同制度もその一環と言える。」という認識でギャップイヤーを導入しようというなら間違っている。
 子どもは経験や体験を通して何かを得るし、何かを学ぶ。しかし、子どもは何を得たのか、何を学んだのか必ずしも明確にできるわけではない。また、そこで得たこと学んだことがこれからどうつながるのかも明確にできるとは限らない。そこで問い直す機会やそれがどうつながるのかと考える機会や、実際に活動するような機会を設けるのが教育の役割だ。
 ただ、体験する、経験する機会さえ設ければそれでいいというような考え方は間違っている。もっと言えば、体験する、経験するとこういうことを学ぶんだというようなことが最初からあって、子ども自身で問い直すようなことをしないのも間違いだ。
 体験や経験は、問い直したり、それを次につなげたりするような機会を設けることが無ければ意味が無い。