子どもを馬鹿にするのもいい加減にすべき

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 先日、http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20070316/1173979079で楽しい授業論について書いた。それと同じような問題がある。
 記事にあるような教科書は、子どもをあまりにも馬鹿にしている。子どもたちの理科や数学嫌いが深刻だという、子どもの意欲の低下が深刻だという。だから、このような教科書を作って子どもの興味を引くのだという。
 これが「ゆとり教育」なのだと揶揄する意見もある。これだから子どもの学力が低下するのだという。
 忘れられているのは、子どもが「育つ存在」であるということと、教師はその「育ちを支援する存在」であるということだ。
 冒頭に上げたような教科書は、デューイの言う

ある経験は、即時的には楽しいものであるが、それは怠慢で軽率な態度を助長することにもなる。ところが、このような態度は、さらに引き続き起こってくる経験を変質させる働きをし、その後の経験から与えられるにちがいないものを、得ることができないようにしてしまうのである。

に他ならない。そこには子どもを「学びにいざなう」という視点は無い。
 先日引用したが、松下良平氏は、

人びとは、学びを通じた(知や技能の向上=世界が広がること=他者との交わり=自己の成長)に深い悦びをおぼえる。だがその悦びは、自己を取り巻く世界や他者と格闘したり、自らの力で知や技をつくりだしたり、古い自分から脱皮したりするときの苦しみや痛みから切り離すことはできない。そこでは〝教師〟に必要なのはまず、学ぶ者が学びの苦しみや辛さから目を背けないように励まし、支えることだ

と指摘している。教科書もそれと同じ役目を担う。
 このような教科書では、教科書が子どもの育ちをどこで止めてしまう。子どもを教科書の中でしか学ばせない。教科書に子どもを縛り付けることと、子どもが学ぶということを混同している。
 浅はかな学びの楽しさだけを子どもに与えようとするのは、問題をより深刻にするだけだ。子どもが学ぶときに、きちんと周りが関わりながら子どもの学びを支援する。そのための教科書作りを目指すべきだ。