価値判断を他人に依存させる教育なんか要らない

特集:06年度教科書検定 沖縄戦集団自決、「日本軍の命令」に意見 研究者から賛否

 こういう問題では、それが事実かどうかが話題の中心になっている。それが歴史書なり、学者の論文ならば、その問題が中心になるのは仕方ない。しかし、教科書で事実かどうかという争いを繰り広げるのはどうしても理解できない。その理由は、次のように考えているからだ。
 教育は子どもの価値判断する機会を与えることが重要だ。よく、子どもは価値判断のできない未熟な存在であるという主張がされる。しかし、今の日本の教育の現状を見てほしい。その未熟な存在の子どもをいつまでたっても価値判断を他人に依存する教育を行い、子どもはいつまで立っても価値判断のできない存在にしているではないか。
 教科書に記述されていることが真実であるなら、それに越したことは無い。だが、様々な価値観や判断によって議論の分かれるものは、論争があるということをそのまま子どもに伝えればいいではないか。そういう問題は、子ども自身に考えさせたり、調べさせたり、議論させたりすればいいではないか。
 教室は開かれた価値観の空間であり、教師であろうと政治家であろうと、誰であろうと、そこに一方的な価値観を押し付けるべきではない。教室で子どもたちが価値判断する機会を奪うべきではない。
 以前、http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20061122/1164137279で取り上げたような授業を批判したのは、「愛国心」を教えようとしていたからではない。教師が子どもたちに一方的に価値観を教え込む授業に終始していたからだ。このような授業は、子どもの価値判断する機会を奪うことになる。
 子どもが未熟であるのは当たり前。周りに感化されやすいのも当たり前。しかし、だから教科書では正解しか、真実しか記述してはいけないというのではない。教科書の記述をただ信じ込まされる子どもは、実に不幸だと思う。
 図書館に置く本は、「真実」を書いてあるものだけしか置くべきではない。図書館は本の内容の真贋を判断して置くべきというようなことを国会で述べた政治家がいたそうだが、教育の場でも同じことを主張するのだろうか。
 教科書の記述の真贋論争は、学会なりほかの場所できちんとした論争をやればいい。教科書を使って、そこに書いてあることは「真実」であるなどと教科書の「権威」を借りて主張するのは間違っている。
 教科書の記述は常に価値中立であるというご都合主義の幻想をそろそろ捨てるべきではないか。教科書に書いてあるというだけで、その問題には異論を挟ませないという主張を左右どちらも捨てるべき。
 教室は、子どもにとって価値判断する場であり、そのためには、教科書であろうと教師であろうと、開かれた価値観を持っているべきだ。
 いつまでも、未熟であるという言い方をして、子どもに価値判断させず、他人に価値判断を依存させるだけの教育は止めるべきだ。