2月27日の最高裁判所の判決について

 判決文を読んだ。いくつか指摘したいことがあるので判決文を引用しつつ書いておきたい。
 まず、

 本件職務命令当時,公立小学校における入学式や卒業式において,国歌斉唱として「君が代」が斉唱されることが広く行われていたことは周知の事実であり,客観的に見て,入学式の国歌斉唱の際に「君が代」のピアノ伴奏をするという行為自体は,音楽専科の教諭等にとって通常想定され期待されるものであって,上記伴奏を行う教諭等が特定の思想を有するということを外部に表明する行為であると評価することは困難なものであり,特に,職務上の命令に従ってこのような行為が行われる場合には,上記のように評価することは一層困難であるといわざるを得ない。

と述べ、

 学校教育法18条2号は,小学校教育の目標として「郷土及び国家の現状と伝統について,正しい理解に導き,進んで国際協調の精神を養うこと。」を規定し,学校教育法(平成11年法律第87号による改正前のもの)20条,学校教育法施行規則(平成12年文部省令第53号による改正前のもの)25条に基づいて定められた小学校学習指導要領(平成元年文部省告示第24号)第4章第2D(1)は,学校行事のうち儀式的行事について,「学校生活に有意義な変化や折り目を付け,厳粛で清新な気分を味わい,新しい生活の展開への動機付けとなるような活動を行うこと。」と定めるところ,同章第3の3は,「入学式や卒業式などにおいては,その意義を踏まえ,国旗を掲揚するとともに,国歌を斉唱するよう指導するものとする。」と定めている。入学式等において音楽専科の教諭によるピアノ伴奏で国歌斉唱を行うことは,これらの規定の趣旨にかなうものであり,南平小学校では従来から入学式等において音楽専科の教諭によるピアノ伴奏で「君が代」の斉唱が行われてきたことに照らしても,本件職務命令は,その目的及び内容において不合理であるということはできないというべきである。

としている。しかし、藤田宙靖裁判官の反対意見に

 原審及び多数意見は,本件職務命令は,教育公務員それも音楽専科の教諭である上告人に対し,学校行事におけるピアノ伴奏を命じるものであることを重視するものと思われるが,入学式におけるピアノ伴奏が,音楽担当の教諭の職務にとって少なくとも付随的な業務であることは否定できないにしても,他者をもって代えることのできない職務の中枢を成すものであるといえるか否かには,なお疑問が残る

とあるように、ピアノ伴奏でなければその教育的意義が損なわれるとは思えない。また、学校教育法および学習指導要領の記述からピアノ伴奏でなければならないという論理を導き出すことはできないと考える。
 また、那須弘平裁判官は補足意見のなかで、

 両面性を持った行為が,「思想及び良心の自由」を理由にして,学校行事という重要な教育活動の場から事実上排除されたり,あるいは各教師の個人的な裁量にゆだねられたりするのでは,学校教育の均質性や組織としての学校の秩序を維持する上で深刻な問題を引き起こし,ひいては良質な教育活動の実現にも影響を与えかねない。

と述べ、

 学校の教師は専門的な知識と技能を有し,高い見識を備えた専門性を有するものではあるが,個別具体的な教育活動がすべて教師の専門性に依拠して各教師の裁量にゆだねられるということでは,学校教育は成り立たない面がある。少なくとも,入学式等の学校行事については,学校単位での統一的な意思決定とこれに準拠した整然たる活動(必ずしも参加者の画一的・一律の行動を要求するものではないが,少なくとも無秩序に流れることにより学校行事の意義を損ねることのない態様のものであること)が必要とされる面があって,学校行事に関する校長の教職員に対する職務命令を含む監督権もこの目的に資するところが大きい。

としている。
 ここで考えなければいけないのは、ここで言う「教員の専門性」とその「専門性に依拠する裁量」の範囲がどこにあるかということだ。おそらく、この判決については、違憲か合憲かとか、教員の行為に対する賛同や批判などに終始されると思う。しかし、この判決は、教員の専門性や裁量の範囲についても一定の判断を示している。これは、日常の指導にもまたいわゆる「未履修」の問題にも関わってくる問題として捉えるべきだ。
 以前、http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20061213/1165990197で伊吹文科相

君が代、日の丸についてはあれほど厳しい指導をしている教育委員会が、このこと(履修問題)については随分、裁量の範囲が広い指導をしている」

という発言を引用したが、この発言を見れば今回の判決が、単に日の丸・君が代だけの問題ではないということは明らかだ。
 また、これは

伊吹文科相、私立学校への教委関与に積極姿勢

という記事にあるように、私立学校に対しても学習指導要領が厳密に適用されるようになるとしたら、公立学校の教員を辞めて私立学校の教員になればいいなどということはできなくなる。
 また、http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20061003/1159816662で少し書いたが、今回の裁判でも思想・信条の自由の観点から裁判が争われ、教育基本法の規定が争点にはならなかった。
 憲法だけでなく、改正前の教育基本法によって教員の専門性に基づく裁量が認められ、保護されていたと考えるなら、そこを今回の裁判でも争うべきではなかったか。また、そういうことをきちんと争ってこなかったために、行政側の裁量だけが一方的に拡張され、教員の裁量が狭められていくことになったのではないか。
 東京地裁の判決は、教育委員会の通達などが、改正前の教育基本法第十条に反するとした。今回の最高裁判決によって、そこがきちんと争われないまま思想・信条の自由の観点のみで敗訴するとしたら、それは教育にとって重大な損失となる。なぜならば、改正された教育基本法では、歯止め規定がなくなった。そのために、教育行政側の裁量にも限界があるということは、おそらく裁判ではまともに争われなくなるだろうと思われるからだ。
 繰り返しになるが、今回の判決は、単に勝ち負けとか、イデオロギーの問題だけで捉えるべきではない。教員の専門性なども含めて議論されるべき問題だ。そうでなければ、この判決も単なる政争の具として利用されることになる。