この指摘は重要だ

 gachapinfanさんに、教えてもらった(gachapinfanさん、ありがとうございます。)広田照幸氏が書いた『思想』3月号の巻頭言。そこで指摘されていることは、とても重要なことだと思う。本当は、全文をここに引用しておきたいのだけど、そうもいかないのでリンクをしておきたい。
 以下、自分が最近考えていることを広田氏の巻頭言を引用しながら少し書いておきたい。
 広田氏は、

 教育学は閉鎖的で、その水準もはなはだ心寒いものがある。どうしてこうなってしまったのだろうか。

という。先日ある方のブログを読んだのだが、そこでは、教育学系の学会などで論じられていることが数十年前からほとんど前に進んでいないんじゃないかというようなことが書いてあった。それは広田氏が言うように教育学の閉塞状況を示しているのだろうと思う。
 広田氏は、

 第一に、他の分野との交流が不活発な状態がずっと続くことになったことである。「教育的価値」や「教育学的意義」は、他の分野の研究者にはなかなか理解されない。細かな研究の発展によって独自の概念や図式が積み重なれば積み重なるほど、隣接諸領域との間の「言葉」の違いによる溝が深くなっていった。

 第二に、教育学の実証的な分析能力が十分発展しない弊害ももたらした。「教育固有の価値」という足場に依拠すれば、教育政策や経済システムとの関係を批判することはたやすかった。思考を停止したまま、「子ども自身の声に耳を傾けない教育政策」「発達を歪める学歴競争」などと、現実の問題をいくらでも批判できたため、制度構築や政策提言につながるような、きちんとした実証的な現状分析が甘くなってしまったのである。

 第三に、1980-90年代のイデオロギー状況の変化によって、それまでの足場が危機になった時、それを組み替える材料や視点の乏しさに苦労することになった。ポストモダン論の台頭によってナイーヴな普遍主義への信頼が崩れた時、「人権」や「発達」に足場を据えた教育学は、懐疑にさらされることになった。「地域の人」や「子ども自身の声」に批判の足場をおく議論は、新自由主義が力を得てくるにつれ、欲望に満ちた消費主体の要求との区別が困難な事態に立ち至った。

という指摘をしている。
 また、広田氏は、

 1947年に作られた教育基本法は2006年暮れに改正され、戦後長らく機会均等を保障してきた義務教育システムも、大きな転換を余儀なくされそうである。現実の教育が戦後改革期と冷戦期を経て作られたシステムを清算する方向に動いているとすると、研究の枠組みもまた、新しい段階にリニューアルすることが必要である。教育学は、急いで理論の足場を組み替えていく必要がある。批判的精神を失わないためにも。

と述べている。
 以前、http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20070127/1169875268で戦後教育をいかに始末するかということを書いた。広田氏は、「今の教育学が全体として、冷戦期に背負い込んでしまった学問的負債の清算に苦しんでいる」と指摘しているが、それは、教育学において戦後教育をいかに始末するかという問題なのではないかと思う。それは、戦後教育と向き合い、何を残すのか、何を捨てるのか見極めていくということだと思う。