消費される「生」と「死」

 朝、佐々氏の記事について書きながら思ったのだが、宮本氏の死は、美談にされることで記号化され、消費されるのだと思った。それも宮本氏の意思とか、遺族の意思からは全く離れて、消費され忘れられていくのだと思った。
 また、「生」についても同じように消費されていく。「生」と「死」がリアルな場面から切り離されて、それとは異なる文脈のなかに当てはめられ、記号化し消費されていく。こうして、こういうことを書いている自分自身もそうだと思う。
 消費された「生」と「死」の跡に何が残るのだろうか。