教育基本法改正の悪影響がここにある

「教委へ国の関与強化」で大筋一致 自民特命委

 自民党教育再生特命委員会(委員長・中山成彬文部科学相)は16日、党本部で開いた会合で、政府が今国会への提出を目指す教育再生関連3法案のうち、教育委員会制度を見直す地方教育行政法案の内容について協議し、「教育委員会に対する国の関与を強化すべきだ」との見解で大筋一致した。

 改正教育基本法は、政治の介入に対して歯止め規定がない。だから、国の権限を強化することは、いつでも政治が介入するすることが容易になるということだ。
 矢内原忠雄氏は、

 教育に対する国家責任を明確にする。で、これは簡単に申しますと、戦争前においては、日本においては国家と教育があまりにも緊密に結びつき過ぎておりました。それで教育に対する国家の監督、指導というのが非常に力強く行われておりました。そのために、事のないときは大へん教育の能率が上ったように見えましたけれども、一たび事が起ってきますと、たとえば戦争前の状況とか、戦争中の状況とか、戦後の混乱とか、そういうことを考えると、政府が指導し、監督するその教育というものが、人間を作るのにはなはだ不十分である。

と述べている。
 おそらく、戦前のようになるはずがないなどと言い、それは杞憂に過ぎないと笑うだろう。では、そう言える根拠がどこにあるのか。
 戦後制定された教育基本法、その中でも、第十条の教育行政に関する規定は、戦前の経験を生かしたものだった。その規定が本当に必要なのは、ことが本当に起こったときだ。しかし、改正教育基本法はその経験から学んだことを捨て去り、歯止めとなる規定を削除した。戦前の経験はそこに全く生かされていない。

 中山氏は席上、「規制改革会議から横やりが入ったように感じる。規制改革会議の議論を進めると、義務教育も要らないことになる」と、規制改革会議の姿勢に不快感を示した。

というが、教育に対して横槍を入れてきているのはそう言う自分たちではないか。
 「国が責任を持つ」ということを都合よく解釈し、国が何もかも口出しできる仕組みを再構築しようとしている。それは時代錯誤も甚だしい愚行だ。
 以前、引用した小林節氏の言葉をもう一度引用しておく。

 人間というのはみんなで共同生活をするに当たって、専門の管理会社みたいなもの、国をつくるわけです。人間は一人ひとりバラバラでは生きていけないから、国家というサービス管理会社がある中で共同生活をして生きていくわけです。そうすると、国家というものは、個人の次元を超えた強大なる統制権を持たないと、交通違反一つだって取り締まれない。
 かつては、その強大な権力を、一人の個人や家が独占していた時代がありました。すると例外なく、権力は堕落していきます。それは人間が不完全なものだからです。そういった失敗の歴史を経て、我々は学び、長く放っておけば必ず堕落する権力というものに、たがをはめるために、憲法が作られたものなのです。
 しかし、自民党の二世、三世議員、世襲で権力者の階級になっているような人たちは、「自分たちは間違えない」と勝手に思い込んでいる。なぜかというと、自分たちこそが権力であり、判断基準だから。民主主義の制度の中では、権力は永遠じゃないのに、自分たちは永遠に権力の座にいる気なんですね。
 生まれたときからおじいちゃんは国会議員、お父さんも国会議員、そして自分も当選したという人たちですから、権力を離さないし絶対に間違えない、という前提がある。だから、自分たちを管理するという立憲主義の発想にはすごく抵抗があるんだろうね。
 そうこうしているうちに、社会ではさまざまな異常な事件が起こる。そうすると、「世の中が間違っている、国民を躾けなきゃいけない」政治家は法律をつくるのが仕事で、法の法たる最高のものは憲法だから、憲法で取り締まればいい――となる。そして、国民は国を愛する心を持つように・・・とか、家庭における役割分担をきちんと考えよう・・・とか。これでは明治憲法下で神たる主権者=天皇が「告文」に始まる大日本帝国憲法で、国民に説教をしていたのと同じです。
 そういった最低限の歴史的教養も、国家論的教養もないんですよ。それで憲法改正を論じているのは、傲慢以外の何物でもない。

 自分たちを縛っていた教育基本法を改正し、その縛りを無くした。そして、法律で国民を縛ろうとしている。「教育は崩壊している。国民を教育し直さないといけない」だから、政治家が法律を作って国民を再教育しなければならない。それは自分たちの役割なのだと、政治家は傲慢なことを考えている。
 http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20060623/1150992750で引用した、佐貫浩氏の

 日本の場合、学校管理職によるマネージメントは、ただちに統制(の効率化)と結びつく性格を持っている。日本では「ガバナー」はまさに国家そのものであり、行政である。その性格は、一九六〇年代の学校経営近代化論が、教師への統制論として機能したことにも現れている。このような構造の下では、マネージメント効率、教師の業績競争は、ただちに権力支配への忠誠競争となり、官僚支配の方法となり、学校と教師の自由の剥奪となる。

という指摘は重要だ。国の権限強化は、地方の教育委員会や教員の忠誠競争を招くだけであり、戦前へと回帰することに他ならない。そして、そういうことが、日教組批判などによって国民の視線を逸らしながら行われようとしている。