落とし穴に落っこちてみた

【正論】高崎経済大学教授・八木秀次 改正教育基本法の落とし穴に要注意

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 この中でアップルは次のように指摘している。

 カリキュラムは、国の行政文章及び教科書といったテクスト(texts)あるいは教室における実践という形で、なんらかの経験を経て姿を現すが、それは単なる価値中立的な知識の集合では決してない。カリキュラムはいかなる時も、ある誰かの選択、ある集団の見方に基づく正統的知識つまり選択的伝統の中核的な部分を構成しているのである。またそれは、一つの国の国民を組織したり解体したりする、文化的・政治的・経済的な葛藤、緊張、及び妥協の産物でもある。(中略)ある特定の集団の知識を最も正統である、つまり公的知識であると認定することは、一方で他の集団の知識が日の目を見ないでいることを意味する。このことを考えると、何が公的知識であるかという決定は、誰が社会的権力を握っているのかに関して、非常に重要なことを語っているといえる。

 アップルは、カリキュラム、日本においては学習指導要領が「価値中立的な知識の集合では決してない」と指摘している。だから、八木氏が引用している、

 伊吹大臣は「文部科学大臣告示」である学習指導要領に基づいて行われる教育は「不当な支配」に当たらないと指摘するとともに、「不当な支配」の規定は「学習指導要領によって全国一律の教育の内容を担保しているわけですから、それと違う内容をイズムによって教えたり、あるいは特定の団体が、結局その団体の考え方でもって教育を支配するということを排除する条項」であると説明している(11月22日、参議院教育基本法特別委員会)。

という伊吹文科相の考え方は間違っている。
 学校が「公共圏」として存在し得るのは、「ある誰かの選択、ある集団の見方に基づく正統的知識つまり選択的伝統の中核的な部分を構成している」学習指導要領に対しても、批判や議論などを行う余地を担保されているからだ。そういう余地を一切持たせずに学校が公共圏として存在することはありえない。もし、そういう余地が無いのだとしたら、それこそ特定のイズムを教え込む空間として学校が存在しているということだ。
 また、八木氏は「特定のイズム(主義)や考え方によって教育を支配する団体、例えば、日教組など左派系教職員組合の影響力を排除すること」を主張する。
 ここで、http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20070206/1170723861で引用した、松下良平氏の次のような指摘を再度引用したい。

 戦後日本(特に1950年代半ば以降)においては、「学校教育の政治からの自律」の旗印の下に、学校教育から政治的活動を排除しようとする動きが顕著であったが、実際には学校は政治に翻弄され続けてきた。そこで実際に起こったことは、国家や経済界の立場や活動を擁護あるいは正当化する意識を「国民」に与えると同時に、それらの立場や活動に異議を申し立てたり抵抗するような意識をできるだけ排除することであった。そこでは政治活動は、「学校教育の政治からの自律」の原則を犯さぬよう、あからさまな政治的教化によってではなく、利益(私的利益・地域的利益)の誘導を通じて行われる。すなわち、一見中立的だが実際には現行の政治システムや経済システムの維持と正当化に貢献する知識や態度が、「学習する側の利益になる」という名目で教え込まれる。そのため圧倒的多数の「国民」(子ども・親・教師)は、「自分のためになる」「子どものためになる」という理由で、その政治活動としての学校教育を、政治活動であることを意識しないままに受け入れてきた。しかも、学校教育が自己目的化するにつれて、「国民」はその政治活動=教育を自ら積極的に求めるようにさえなる。その結果「国民」は、国家や経済界の立場や活動に抵抗しないことを余儀なくされるというよりも、自ら進んでそれに抵抗しなくなった。

 このようにして生じたのは、教育を受けた者の政治意識の剥奪である。ここでいう政治意識の剥奪とは、政治が政治であることを隠して強制され、その強制を自発的に受け入れるという現実の中で、子どもや親だけでなく教師も、政治に対して無関心になり、無知になったことである。すなわち、自らが政治に翻弄されているにもかかわらず、そのことに問題関心や問題意識をもたず、その蹂躙状態に甘んじるようになったことである。

 八木氏などがよく主張するようなことは、まさに「国家や経済界の立場や活動を擁護あるいは正当化する意識を「国民」に与えると同時に、それらの立場や活動に異議を申し立てたり抵抗するような意識をできるだけ排除すること」であり、それは「「学校教育の政治からの自律」の原則を犯さぬよう、あからさまな政治的教化によってではなく、利益(私的利益・地域的利益)の誘導を通じて」行われる。つまり、八木氏などがよく言う、日教組などを排除することが子どものためであるというようなものは、子どもの利益を盾にして、政治的活動を行っていることに他ならない。
 「一見中立的だが実際には現行の政治システムや経済システムの維持と正当化に貢献する知識や態度が、「学習する側の利益になる」という名目で教え込まれる」ことが、教育基本法などの改正によってさらに強化される。日教組などはそのためのスケープゴートに過ぎない。