何からも学ばない馬鹿げた教育改革

教委改革 文科相に是正勧告権

 政府の教育再生会議野依良治座長)は五日夜、第一分科会を都内のホテルで開き、今国会に提出予定の地方教育行政法改正案に盛り込む教育委員会制度改革の具体策を決定した。

 焦点となっていた国と、都道府県教委、市町村教委との関係については、教委が法令違反や、教育本来の目的達成を阻害していると認められた場合、文部科学相が是正のための勧告・指示を行うことができることを明記した。

 まず、

 第一分科会主査の白石真澄東洋大教授は分科会後の記者会見で、是正勧告権を行使する具体例として「いじめの調査を怠り、いじめに対応できていない、学習指導要領に沿った教育をしていないため、教育の質の低下につながる」場合などを挙げた。

というのが、今回「地方教育行政法改正案」に盛り込まれようとしている是正勧告権を行使する具体例だという。教育について全く無知な人たちが考えるだけあって実にくだらない。白石氏が挙げたようなことは、一々国が口を出すべきことではない。この程度のことで国一々口を出すのは教育を息苦しい、硬直化したものに変える。こういうものは百害あって一理なしだ。
 以前、http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20060917/1158454622で引用した、矢内原忠雄氏の言葉を引用したい。

 第二の、教育に対する国家責任を明確にする。で、これは簡単に申しますと、戦争前においては、日本においては国家と教育があまりにも緊密に結びつき過ぎておりました。それで教育に対する国家の監督、指導というのが非常に力強く行われておりました。そのために、事のないときは大へん教育の能率が上ったように見えましたけれども、一たび事が起ってきますと、たとえば戦争前の状況とか、戦争中の状況とか、戦後の混乱とか、そういうことを考えると、政府が指導し、監督するその教育というものが、人間を作るのにはなはだ不十分である。従って、国としても基盤の脆弱な、いわゆる道徳的のバック・ボーンとも申されるものが十分具備されておらない、国の言うことなら何でも聞く、そういうふうな人間だけを作ることになるだろう、そういう反省からいたしまして、国家と教育を、強くいいますと分離したわけであります。これはなかなか大きな問題でありますが、三権分立の思想からいいますと、立法、行政、司法が分離されております。国会も政府も司法権に対し干渉しない、それでも国はちゃんと立っていくし、それでなければ、国は正しく治まっていかない。教育の問題は、一般行政の事務の中で非常に特別な位置を持っておる。というのは、政治の都合で朝令暮改、たびたび改めるべき事柄ではなくて、教育には先ほど申しましたように中立性と持続性という、長い目で見て育てていかなければならない特別の任務があります。そこで政府の干渉、監督、指導から離れたところに、国民自身が教育について責任を持ち、関心を持っていくというそういう制度ができるわけであります。これが民主主義における教育の位置だと思うのでありますが、日本では戦後の改革で、文部省はサービス機関となりまして、指導、監督の権限が大へん少くなりました。義務教育は、地方は地方の教育委員会がいたしますし、大学は大学の自主的な行政管理ということを主張いたしまして、文部省はサービス機関になった。これは戦前の官僚行政、官僚統治から見ると非常な変革でございました。戦後はどうかと申しますと、今日までのところ、文部省は良識を持ちまして、あまり差し出たことはしないし、できるだけの努力をして、日本の教育をもり立てるようにやってきたように思われます。しかるに今、それが一歩を進めまして、文部大臣が教育を監督するような態勢を作り上げるといえば、教育の事業の一つには中央集権化、一つには官僚的な統制という傾向が見えてきまして、そして教育という仕事に対して不適当な態勢ができるおそれはないか。

 また、先日http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20070205/1170655894で紹介した田中耕太郎氏の言葉も引用しておく。

 尚教育に於きまして、特に民主主義をどう云ふ風に實現して行くかと云ふやうなことに付きましては、色々な考も成立ち得るかと存じますが、私が二、三考へ付きましたことを申上げますと、教育と云ふものを獨立せしめる必要があるのではないか、即ち教育の權威の維持、言ひ換へますると、教育と云ふものが從來如何にも政治の手段、或は政治の一角を成して居つたと云ふやうな、さう云ふ考へ方をなくしまして、教育自身がそれ自體價値があるものと考へるやうな思想に立つことが必要ではないかと存ずるのであります、で此の教育の尊重、是は我が國に於て度々口頭禪として唱へられて參つた譯であります、併しながら實現はなかなかむつかしかつたのでございます

 矢内原氏も田中氏も「教育の独立」を主張している。それは、教育は独立すべきというのが「歴史から学んだ教訓」だったからだ。しかし、今回教育再生会議が打ち出したものは、はっきりといえば、戦前への回帰だ。戦前の教育制度の弊害が何であったか。そこから学ぶことは何か。そのようなことは教育再生会議の委員は知らないのだろう。また、知ろうとも思わないのだろう。
 教育再生会議は、イギリスやアメリカの教育改革をモデルと考えているのかもしれないが、彼らのやっていることは表面的な部分だけ、制度の外側だけを真似た「猿真似」だ。彼らは歴史からも外国からも何も学んではいない。
 中教審が、茶飲み仲間の仲良しクラブに成り果てた今、教育再生会議のニセ教育論を抑えるものがない。彼らは、教育について無知をさらけ出しながらも言いたい放題、やりたい放題で教育は一向に良い方向には向かわないだろう。
 後藤和智氏が、http://kgotoworks.cocolog-nifty.com/youthjournalism/2007/02/post_d84c.htmlで述べているように、「今こそ「蔓延するニセ教育学」という視点でもって、専門家をフルに活用すべきではないか。」と私も思う。もう少し、教育について専門家がきちんと主張し始めるべきだ。そうでなければ、このまま偏見と誤解に満ちたそれこそ「教育改悪」が行われることになる。