偏見と誤解に満ちた「正論」

【正論】京都大学経済研究所所長・西村和雄 「ゆとり教育」見直しは人事一新から

 西村氏は、

 行き過ぎたジェンダー教育も、歴史教科書問題も、また音楽の教科書から童謡、唱歌を少なくして現代的なポップスを入れたりしたことで、日本の文化や情緒が子供たちに伝わらなくなったことも、指導要領、すなわち「ゆとり教育」の問題である。さらに、国語や英語の教科書で使われる文章の選び方で、子供が道徳的にも非道徳的にもなることは、中国の反日教育の効果をみればわかるであろう。

と述べているが、「ゆとり教育」に対するこのような見方や考え方は、偏見に基づくものであり、全くの間違いである。この程度の認識でさも教育についてよく知っている「有識者」の顔をして語るのは見ていて腹立たしい。
 また、西村氏は、

 再生会議の提言で見落とされた重要な点が1つある。それは平成14年4月から導入された絶対評価の弊害である。この絶対評価とは、テストで測れる到達度(「知識・理論」)のみではなく、観点別に生徒の「関心・意欲・態度」「思考・判断」「技能・表現」にも成績をつけ、その合計を教科の点とする方式である。客観的に測定不可能なものに、教師が主観で点数をつけ、進学の合否に使うのである。

 これまでも、観点別の評価を行っている学校は多かった。そして、教室で手を挙げる回数で点数が決まるなど、その弊害が指摘されていた。事実、文部省が観点別評価の内申書への導入を全国に拡大した6年を境に、中学校での生徒間暴力事件が2倍に増加するなど、生徒に与える過大なストレスが問題視されている。

 10年に栃木県の公立中学校で、女性教師が中学1年生の男子生徒にナイフで刺されて死亡する事件があった後、ある新聞の群馬版に「私たちの見えない悲鳴に気づいて下さい。…一日も早く無意味な推薦制度と内申書の悪用をやめて下さい」という中学3年生の投書が載っている。

 進学塾の市進学院による16年の調査では、学校での英語の成績が「5」評価だった者が、模試を受けると、その偏差値が73から31まで広がっている。先生に好かれるなら、勉強ができなくても「5」をもらうのである。

 一方、先生に嫌われると勉強ができても「5」をもらえない。AERA(18年5月15日号)は、数学が得意な娘が定期テストで常に100点満点近くを取ってきたのに、「5」がついたことがないという話が出ている。授業態度や、手を挙げる回数、提出物などあらゆることが評価の対象になるからである。人前で発言することが苦手な子では「5」をとれない。こんなばかげた評価方法を誰が考えたのかと思う。

と述べている。
 これまで、http://blog.livedoor.jp/kaikai00/archives/50369754.htmlなどで、絶対評価には限界があること、その限界を理解し、適切に運用するなら西村氏の言うようなことにはならない。絶対評価を止めるのではなく、絶対評価がその限界を超えて適用されているところを改善することが必要だ。

 1月14日の社説で秋田魁新報は「もし不適切な教育政策だったというのなら、文部科学省をはじめ推進者の責任も問われなければならない」と述べている。なぜ、同様の意見が他の新聞に登場しないのだろう。

 推進者の責任は問わないとしても、ゆとり教育に責任があった人々を入れ替えることは不可欠である。文科省については、人事異動を実施する中で、政策転換が徐々に進んできた。しかし、中教審の委員の方は本質的に変わっていない。新しく入った人たちもお飾りに過ぎず、文科省の各種委員会ではゆとり教育を支持する面々が相変わらず影響力を行使している。このままでは、再生会議の提言も「絵に描いた餅」になろう。教育再生を実現するためには、中教審と関連委員会の委員をかえることである。

 このような主張は、

「みんな」のバカ! 無責任になる構造 (光文社新書)

「みんな」のバカ! 無責任になる構造 (光文社新書)

で指摘されているように、こういう責任追及はみんなの無責任を招くだけであり、教育にとっては何の利益ももたらさない。寺脇研氏が文部科学省を去ったとき、それを歓迎する意見が多かった。しかし、「ゆとり教育」の「責任」を寺脇氏個人がとっても何の意味もない、単に象徴的な意味しか持たない。
 誤解と偏見に基づくことを「正論」として述べる。西村氏は藤原正彦氏とよく似ている。