疑ってみる

【野菊】脱ゆとり教育元年

 まず、ここで述べられていることを疑ってかからなければいけない。日本だけではないが、授業時数の増減と教科書の厚さの増減が学力低下とよく結び付けられる。でも、そんなものは普遍性のない佐賀のがばいばあちゃん風に言えば「気のせい」にすぎない。
 たとえば、日本よりも授業時数が少ない国は常に学力が低いのか。日本よりも教科書が薄い国は常に学力が低いのか。おそらくこういうと、それは詭弁であるといわれるだろう。しかし、考えてほしい。なぜ日本だけはそのようなことが学力低下と結びつくのかと。
 円周率の問題は典型的な例で、自分たちはこう習った。今の子どもたちはこうだって。なんかおかしいよねという話になる。円周率はこうだと一方的に思い込んでいるにも関わらず、それを絶対視する。
 授業時数が減ったら学力が低下する。教科書が薄くなったら学力が低下する。それって常識じゃないかと言われる。それは、自分たち基準じゃないかと思う。
 社会の発展とともに知識は増える。それを学校で教えていかなければならないとしたら、30年前の水準に戻してもだめ。授業時数にしても教科書の厚さにしても当時よりはるかに増やさなければいけない。いくら増やしても常に不足した状態。だから、常に学力は低下した状態。税金みたいに、これからは年数パーセントの割合で授業時数も教科書の厚さもアップしていくのかもしれない。もちろん増えた分は、ボランティアでやりなさいと言われるだろう。
 教育再生会議などが、何の疑いもなく信じている学力低下という憶説を否定すること。(もうすでにそういうことはやられているけど)それをまずやるべきだ。