戦後教育をどう始末するか

この中に収められている「世界認識の方法―マルクス主義をどう始末するか」というフーコー吉本隆明の対談を読んでいる。
 これを読みながらなんとなく考えたことがある。安倍首相は戦後レジュームからの脱却ということを主張し、その一環として教育を取り上げている。安倍首相やそれに賛同する方々にとって「戦後教育をどう始末するか」というのが課題になる。
 そして、安倍首相などが進めている教育改革について反対の方々にとっても戦後教育をどう始末するかというのは課題になる。
 以前、http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20061107/1162883725で戦後教育の歴史と向き合うことが必要じゃないかということを書いた。安倍首相やその周辺の方々は、(私には彼らの戦後教育史観は自虐史観にしか思えないのだが)戦後教育をどう捉えるのか。その根拠はどこにあるのか。そして、そこから何を学び、これからどうするのかきちんと語ってはいない。これは、安倍首相などの進める教育改革に反対する自分たちも同じで、戦後教育についてきちんと向き合い、語ることができていない。
 教育基本法改正の議論から現在に至るまで、戦後教育をどう始末するかというのは棚上げにされてきたように思う。そこをきちんと議論しないまま戦後教育からの脱却を図ろうとしても無理がある。
 戦後教育からの脱却を唱えながら、実際には現在の問題を解決するという小さなところの議論にしかなっていない。道場親信氏の

 歴史を使い捨てるのでなく、歴史と対話すること。「いま」を絶対化する視点‐それは「保守」を標榜するネオリベラリズムにも共通の(没)歴史意識だ‐ではなく、「いま」を相対化し、別様な可能性を学びとること。

という指摘は、戦後教育の歴史にも当てはまることだ。