単純化された図式の中で

 KOYASUさんが、http://koyasu.jugem.jp/?eid=727で指摘されているが、授業時数の増加は格差社会の是正にはつながらない。
 よく、教育と格差の問題とをリンクして語られることがある。しかし、多くの場合単純化された図式で語られており、教育の問題と格差の問題とが無理やりリンクされてしまっていることが多い。それは、教育と格差の問題だけでなく、他のことでも同じような傾向がある。
 その背景には、学力低下論の混乱がある。そして、学力について様々な要因との関係が指摘されるようになったにもかかわらず、単純化した図式でしか語られないことがある。
 学力低下論の混乱というのは、たとえば、西村和雄氏などに代表されるような学力低下論で、大学進学率の上昇などマクロな部分の変化をきちんと見ないで、学習指導要領の問題へと矮小化されていったこと。OECDPISA調査などの結果がきちんと検討されないまま、学力が低下しているという認識が広まったことなどがある。
 学力について、様々な方面から検討が加えられるようになった。しかし、そこから導き出されてくるものは、非常に単純化された要因論ばかりだ。代表的なものでいうと、陰山英男氏などが言う、朝食と学力との関係論などがある。
 もう一つ背景にあるのは、学力論とも関係しているが、教育制度の問題だ。教育と格差の問題には、教育制度が影響を与えている。学力と格差の問題はミクロの問題であり、教育制度の問題はマクロな問題だ。ここ数年間、学力低下が声高に言われるようになって以降、ミクロの問題だけに注目が集まり、マクロな部分の問題はほとんど議論されていない。
 OECDPISA調査への対応によく現れているが、OECDの調査は単に、学力だけを測るためにあるのではない。他国と比較することで教育制度を見直すためのデータを提供することを一つの目的にしている。
 OECDPISA調査責任者のアンドレア・シュライヒャー氏が2003年1月に東京大学で講演した時の記録から次のような話を紹介したい。

 ドイツ、オーストリアハンガリーチェコ共和国といった国々では、種別化された試験を実施する学校環境を作っている。基本的には、生徒をトラックやストリームに分類する。フィンランドスウェーデンでは、特別な学校というものはなく、1つのタイプの学校しかない。そこでは、生徒個々の違いや、ニーズ、関心、そして能力などに注意を向けるのが、教師の仕事となっている。残りの国々は両者の間に位置している。
 2000年のPISA調査の結果を見ると、最も成功している教育システムは、生徒の能力のばらつきに対応できる教師を抱えているところ。そして、ドイツなどのように、システムの構造によってばらつきに対応しようとしている国では、目覚しい結果を出していない。

と述べ、そうなる理由をシュライヒャー氏は次のように分析している。

 生徒の習熟度に影響を与えうる社会背景について二つの側面から分析する。1つには、生徒の結果と家族背景には直接の因果関係がある。例えば、貧しい家庭ほど、子どもにいい本を買い与えたり、勉強机を与えたりしない。これが生徒の習熟度への直接的な影響。他方で、間接的な影響もある。例えば、貧しい家庭出身の生徒ほど、出来がよくないクラスや学校に入るということ。
 2つの背景との関係について国ごとに見てみると、トラッキングが実施され、早い時期に選抜するシステムの国々では、貧しい家庭出身の生徒ほど、出来がよくないクラスや学校に入るという背景が強く影響していて、実際には、能力にもとづいて生徒を分けているのではないということが分かる。ドイツやハンガリーなどでは、能力で分けようとしているが、実際に行っているのは、ほとんど社会的な選別みなっている。これは、人的資本理論に基づいているが効果はない。

 PISA調査を受けて、日本ではこういうような教育制度に関する議論はほとんどされてこなかった。
 何度かこのブログでも書いてきたが、教育の問題が単純化された図式でしか議論されないために、必要な対策が講じられないままになっている。冒頭の教育と格差の問題に話を戻すと、学力の問題に議論が集中するために教育制度の問題には手がつけられない。そのために格差の問題は解消しないと言うことができる。
 教育の問題は単純化された図式で見ない、語らない。それが重要なことだ。