混同しないで考えることが必要だ

規律厳守の生徒指導、違反たまると退学も 高校で試み

 まず、この記事で

 規律を厳しく守らせる「ゼロトレランス」(寛容度ゼロ指導)という米国の生徒指導法が全国の高校に広がり始めている。違反が一定回数に達すると出席停止などの罰を定め、必ず守らせる「ぶれない指導」が特徴だ。厳しい指導が日本の教育風土にどこまでなじむのか。現場を訪ねた。

という前振りがされているが、間違いで、ここに紹介されているものとアメリカで行われているゼロトレランスとは決して同じではないことをまず強調しておきたい。
 まず、静岡県立御殿場高校の取り組みだが、記事に「チケット制の対象は服装や化粧など外見だけだ。」と書いてあるように、客観的な基準を設けやすいものに限定している。これは、いじめのように明確な基準を設けられないようなものに対して同様のことを行う場合とは異なる。そういう相違点を明確にしないまま、御殿場高校ではうまくいっているから教育再生会議の提言するようなものもうまくいくと考えてはいけない。
 岡山学芸館高校の場合は、記事で「謹慎者は特別教室で自習する。カウンセリングで反省を促し、教室に戻れるよう指導する。」と書いてあるように、退学者を出さないような取り組みを同時に行っている。これは、単に違反者に罰を与えるという発想ではない。教育再生会議の議論で欠落しているのがこの部分で、そういうところは議論せずにとにかく違反者には罰を与えなければいけない。ということばかりが先行している。
 この記事の中でもっとも馬鹿げた発言をしているのが文部官僚で、

 子どもによる凶悪事件の多発を受け、文部科学省は05年からゼロトレランス方式を調査し、昨年5月に報告書をまとめた。場合によっては出席停止も認める内容だ。森嶋昭伸・生徒指導調査官は「社会の厳罰化が進んでいるのだから、学校でもそれを実感させなければならない」と話す。

というものだ。社会の厳罰化が好ましいことかどうかという議論も必要なのに、社会がそうなっているから子どもにもそうするという馬鹿げた発想を持っている。社会は厳しいのだから、子どもも厳しい世界に放り込めというのと同じ発想だ。そこには、さまざまな問題にとにかく耐えろ、耐えられるようにしろということしかなく、その問題を解決するという発想はない。
 鹿児島県立牧園高校の場合は、以前http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20061216/1166201717で紹介したアメリカで指摘されている問題と同じことが問題となって止めている。
 冒頭にも書いたように、この記事で紹介されていることは、アメリカのゼロトレランスと全く同じものではないし、教育再生会議が打ち出そうとしていることとも異なる。だから、記事で紹介されているものが成果を挙げているから、教育再生会議の打ち出すものも成果を挙げるということではない。社会においても学校においても厳罰化は決して好ましいことではないと考える。まして、社会がそうだから学校もという文部官僚のような発想はすべきではない。