教師像の共有関係の切断

ISBN:4788507331:detail

久冨善之 「変動する日本社会の教師たち―その混乱、葛藤、そして「乗り切り(?)」」より引用。(一部、注など省略)

2 「情報消費社会」における「教師像」「学校知識イメージ」の変化と教師‐生徒(父母)関係の難しさ

「情報消費社会」とは、中西新太郎の著書から引いたもので、情報が大量にあふれているばかりでなく、知識もイメージも情報として人々の消費の対象となる現代社会のあり方に着目した言葉である(中西、一九九八)。情報消費社会は、それまで教師・生徒関係を支えていたような「教師像」「知識観」を脱構築する作用を働かせていると思う。
 1 献身的教師像共有関係の切断
 その一つとして、「献身的教師像共有関係の切断」という問題を考えたい。日本社会に根強く存在する教師像として「熱心で子ども思い」の「献身的教師」という像があった。たとえばそれは、「期待される教師のタイプは」とたずねたアンケートで、一五タイプの中から「教え方のうまい」や「知識が豊富」を上回って、父母も教師も「授業や生活指導に熱心」「子どもの気持ちがよくわかる」を第一、二位の多さで選択するという二〇年前の調査結果にも示されている(矢野、一九七九)。またそれは、「(教師とは)経済的にはさして恵まれないし、気苦労や自己犠牲も多いが、子どもと接する喜びのある、やりがいある仕事」というのが、多数派教師の教職イメージであるという(筆者自身取り組んだ)質問紙調査結果にも反映している(久冨、一九九二)。
 社会的に共通の位置をもつ人間たちに対して人々が抱く「像」「イメージ」は、一つの社会的存在としてのコンセプションズ(conceptions)である。そのコンセプションズは単に人々に抱かれているというだけでなく、その当人たちの自己イメージにもなり、さらに当人と他者との間のコミュニケーションを仲介し、かつ規定する枠組みにもなる(山村、一九七〇)。
 この「献身的教師」像は、日本の学校制度が拡大し教師層が大衆化する時代(一九二〇年代)に、権力の側から教師殉職事件などを材料にしながら「つくられた」ものだという教育史の研究がある(中内、一九九五)。しかし単に上からつくられたというだけではなく、それは(上の二つの調査結果にも見るように)教師たちの自己意識にもなり、また父母・国民とも共有されていたと考えられる。「献身的教師」コンセプションズが教師と生徒・父母・住民とに共有されるという関係、もしそれがこれまで広くあったとすれば、本論文の主題である「教師の仕事の難しさ」、とりわけ「生徒・父母からの信頼と権威の調達」にとって、そのことが大きな支えとなっていたであろうことは容易に想定できるのである。
 今日でもある種の理想像として、だからまた現実の教師を批判する際の鏡として、この「献身教師像」は父母・国民の間に残存しているが、それによって教師‐生徒関係や教師‐父母関係において教師への信頼とその信頼に立つコミュニケーションを(それぞれの教師の個性や能力にかかわらず)形成し支えるほど強くこの像を内面化している人は、いまやほとんどいないと言ってもいいのではないか。
 半世紀以上根強く存在した「教師像」が解体していくに当たっては、たとえば一九七〇年代半ば以降、学校教師がそのような信頼に値しない姿をさらしたいくつもの子ども・教育事件があるだろう。その際に、「信頼に値しない」という事実それ自身もさることながら、それがテレビ・新聞・雑誌等を通して、大正年間に「(献身的教師像が)上からつくられた」時の比ではない情報量でもって国民に届けられた点も垂要である。さらにそれは単に情報の量だけではなく、「荒れ」・体罰・「いじめ自殺」と事件が続き、それらが次々に大きな話題になりながら、しばらくすると新奇な「話題性」(その意味での「報道価値」)を失って忘れられていくという「情報消費」のメカニズムの中で、「特別な」意味を保持していた像・イメージが脱構築されていくという過程でもあっただろう。
 今日でも「献身的教師」像は、教師たちの「教職自己イメージ」として、また父母・国民レベルでのある種の「理想像」としては残存しているが、教師コンセプションズとして共有されるという関係はもはや切断されていると考える。このことは小さなことではないだろう。というのは、そういう教師像の共有関係が、学校教師に対する子どもと父母からの無前提の信頼ないし学校体験を通じた信頼形成を大いに支えていたとすれば、それが切断されたことは、教師にとってもともと難しい教育という仕事の困難が今になって急速に拡大していること、つまり教師と生徒の間に「教育・学習(伝達・獲得)」というペダゴジックな関係を形成することの困難性が増し、その困難が一人ひとりの教師の上にのしかかっていること、などのこうした今日的事態に一つの説明文脈を与えるからである。