教育不安社会を打破するために

 自戒も込めて書いておきたいことがある。
 昨年、教育基本法改正に関していくつかエントリーを立てた。そのなかで何度か「教育の崩壊というような言葉で表現されるような危機感や不安感は教育基本法改正賛成派、反対派のどちらにも共有されている」というようなことを書いた。
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芹沢一也氏や浜井浩一氏が治安の実態について明らかにし、「犯罪不安社会」への警鐘を鳴らしている。教育も同じような状況がある。
 「教育不安社会」のなかで、ほとんど実証するというプロセスを経ないまま量産される教育言説。それを有効利用して自分たちのやりたいことを着々と実現させつつある人たち。冒頭に書いたように、教育への不安が様々な立場を超えて「共有」されているなかで、教育基本法改正の議論によく現れているが、現実と乖離しがちなスローガンを連呼するだけでは、その主張が受け入れられることはない。
 森重雄「教育社会学における批判理論の不可能性」『ISBN:4788507331:title』のなかで森氏は次のように指摘している。

 教育の「非難理論」は、それじたいが対象である教育の自明化のうえになりたっている。そうであるからこそ、「非難理論」は、主流派教育社会学と、見かけ上、原則的には内容を違えるとはいえ、「教育改革」なるものを志向する。この点で、教育の「非難理論」は、教育という対象の自明性のもとに還帰し、はからずも主流派教育社会学と共謀するかたちで、教育の自明化を補強し、その自明性のなかにみずからを包絡し安住の地を確保する。
 言いかえれば、「非難理論」にあっては、主流派教育社会学とまったく同様に、自明的な教育がいかなる問題を有し、それを教育の自明性のなかでいかに「解決」するか、「解決」すべきか、が主題となる。

 教育不安社会で量産される教育言説の多くは、森氏の言う「教育の避難理論」というものだ。だから教育不安社会では教育改革が熱望される。そして、教育不安社会で受け入れられやすいのは、「こうすればこうなる」と明確に言い切ってしまうような改革案と、誰も反対できないような教育哲学を掲げた改革案だ。
 そういったものに対して、きちんとした批判がなぜなされないのか。教育不安社会が教育を自明視し、制度の不備や資質の低下などを問題とするように、教育不安社会を批判する側も教育を自明視し、そのなかでいかに問題を解決するかという主張に終始してしまうからだ。
 ただ、森氏が指摘するようなことを克服することは容易ではない。容易でないとしてもそれを克服するための戦略をたて、教育不安社会を打破するための武器を持つ必要がある。今年の一つの目標としてそれを掲げたい。