愚をまた繰り返すのか

夏休み短縮、土曜補習 ゆとり教育転換、総授業時数増加へ

 相次ぐ学力低下の批判を受けて始まった学習指導要領の見直しをめぐり、週5日制を維持しつつ総授業時数を増やすため、政府が夏休みの短縮や土曜補習を進める方向で検討していることが2日、分かった。「ゆとり教育」が導入される前の平成元年改定の教育課程水準に戻し、基礎学力を回復させる狙いがある。

 新しい運動には、それが押しのけ取って代わろうとしているものがもっている目的や方法を拒絶しようとすると、そこには常に危険が伴う。つまり新運動の原理を積極的にまた建設的にではなく、むしろ消極的にしか発展させないという危険が常にみられるというのである。したがって、新しい運動の行く手において、その実践上の道しるべは、その運動それ自体の哲学の構造上の展開から得られるのではない。それどころか、拒否されるものから、新しい運動の実践上の手がかりが得られるのである。

 この言葉は、デューイの『ISBN:4061596802:title』
の中の言葉だ。
 詰め込み教育を批判し、その反対のことをすればいいと考えた「ゆとり教育」。その「ゆとり教育」を批判し、その反対のことをすればいいと考えている「反ゆとり教育」。デューイの言葉を通してこの流れを見れば、それがいかに危険なことか分かるだろう。
 このような流れに共通するものは、それまでの教育の流れを批判し、ただその流れを逆にすればいいというもの。そこには「教育の論理」も「教育哲学」もない。「詰め込み教育」「ゆとり教育」のすべてを否定しなければならないのか。残すべきものはないのか。そういう議論をせずに、とにかくこれまでの教育の流れを逆に変えること。それが目的化し、理論を後になって付けていく。目的の実現のために都合の良い教育哲学や理論を使って正当化しようとする。
 現在の教育改革が「ゆとり教育」を全否定し、その反対のことをやっていけばいいということならば、遠くない未来にその教育は否定され、その逆の教育をすべきという議論が起こることは避けられない。なぜなら、その教育自身そうして生まれたものだからだ。
 いわゆる「ゆとり教育」についてきちんとした検証が行われないまま、方向転換を行おうとしている。ゆとり教育が同じようなやり方で失敗したにもかかわらず、その愚をまた繰り返そうとしている。