寝言はお一人で
花岡氏は、
夏の高校野球で「ハンカチ王子」という言葉が生まれたが、あの青いハンカチがほのぼのとした思いをかもし出してくれたのは、母親の手づくりだったためだ。これがガールフレンドかなにかのプレゼントだったというのでは、あれほどの反響を呼んだだろうか。
と述べている。これは、事実誤認ではないか。こういう話は初めて聞いた。花岡氏は続けて、
教育再生のポイントがそこにのぞいている。「おとうさん、おかあさんを大切に」というしごく当たり前の徳育だ。家族の情愛、生命の尊さ、師(先生)への尊敬、善悪の区別、日常のあいさつといった基本から叩き直してほしい。これが「宗教的情操の涵養」ということだろう。特定宗教の押し付けではない。人間の生き方のイロハであって、法律以前の話だ。
と述べる。「人間の生き方のイロハ」云々以前に、花岡氏はジャーナリストとしてのイロハができていないのではないか。
花岡氏は、「家族の情愛、生命の尊さ、師(先生)への尊敬、善悪の区別、日常のあいさつ」と並べ立て、それを「宗教的情操」だという。宗教界、研究者の方々にぜひ伺いたいが、本当に、こういうのを「宗教的情操」というのでしょうか。
花岡氏は次に、
同時に、やはり欠かせないのは「読み、書き、そろばん」だろう。いまの子どもは大学生ぐらいになっても、日本語が満足に読めないし書けない。新聞を読む習慣もない。
筆者は大学院などで教えているが、論文指導のスタートで「演歌論」をやることにしている。都はるみの「北の宿から」、大月みやこの「女の港」など、歌詞を覚えていって黒板に書き出す。七五調の日本語のリズム、やさしい言葉や言い回しによっていかに強烈な情念を伝えられるか。日本語の奥深さ、言葉の持つ輝き、といったものを学生たちに教えたいのだ。
これはいまのカタカナ氾濫の音楽ではだめで、やはり歌謡曲でないといけない。ほとんどの学生はそうした演歌など知らないが、初めて聞く「演歌による文章論」は意外に評判がいい。これをやると論文の質も違ってくる。日本語を大切にする意識が芽生え、文章にここちよいリズムが生ずることになる。
と述べている。こういうのは、教育再生への提言ではなく、花岡氏の個人的な主張レベルで留めておくのがいいのではないか。
また、
初等教育に「ゆとり」など不要だ。日本語を徹底して教え、できればインドのように「二桁の九九」まで暗記させる。子どもの人権を言う前に、社会生活に適応できない学力低下児童ばかり生み出していいのですか、と反撃しなくてはいけない。教育再生に必要なことは別に目新しいテーマばかりではない。われわれの子どものころの学校に戻ればいいだけの話である。先生は怖い存在であっていいし、宿題はヤマのようにあっていいのだ。
と花岡氏は述べている。こういう個人の体験に依拠した、ノスタルジックな話が最近よく「教育論」として語られる。それが寝言レベルで止まればいいが、教育政策に反映されるようなところまでくると、危ない。花岡氏のような主張を読むと、広田照幸氏の「教育は、単純素朴な思い入れや思い込みで、誰もがいくらでも語れるようなトピックである。」という指摘を思い出す。花岡氏の提言にあるような教育論の氾濫を止めることが必要だと改めて思う。