教育の失敗という教育神話(再掲)

広田照幸「<教育知>としての青少年問題 : 「教育の失敗」という教育神話」『日本教社会学会大会発表要旨集録』 第51号 日本教社会学会 1999年 より引用

 (広い意味での)「環境対遺伝」ではなく、「教育対遺伝」という対立項でものごとが考えられてきているということ、青少年問題が「教育の失敗」の結果だとして説明されがちであることは、いわば、裏返しの「教育万能主義」という神話が議論の根底に存在しているということを意味している。
 青少年の起こす事件をすべて「教育の失敗」とみなす発想は、青少年の生活全体を、大人が管理・コントロールできるし、すべきだという、ある種の社会的な暗黙のコンセンサスがあることを意味しているのではないだろうか。
 最初に述べた、監獄と軍隊の話とつなげて、二つの点を指摘しておきたい。
 一つは、監獄への批判者が出す論理が、当の監獄が依拠する論理と同一のものであったと同様に、現在の青少年の「教育の失敗」に対して持ち出される論理は、「教育をよりうまくやること」という、基本的には同じ論理のものだということである。
 もう一つは、全制的施設においてすら失敗し続けてきたわけだから、青少年を一人残らず秩序の下におこうとする志向は、不可避的に失敗せざるをえない、ということである。むしろ、社会全体のすべての子供の心を、大人の教育的配慮の下につなぎ止めておこうとする志向性が、必然的に青少年問題を「教育の失敗」として語る構造を作っている。
 子供たちは必ず、大人の教育的配慮の網の目をすり抜けていくし、「教育万能神話」にもかかわらず、多くの事件は、教育とは無関係に今後も起きていってしまうだろう。むしろ、子供一人一人に、大人の理解不能・介入不能な、「心の闇」があることを認め、すべてをコントロールできないとすると、何がどう可能かを考えるところから、青少年について議論する必要があるのではないだろうか。

 教育再生会議の議事要旨を読んでいると、広田氏のこの指摘をすぐに思い出した。教育再生会議のメンバーが取り憑かれているのは、教育の失敗という教育神話なのだと思う。そして、そこから現状を打開するようなものが出てくるとは思わない。