愛国心の問題を無理矢理無害化する授業

 http://d.hatena.ne.jp/debyu-bo/20061114/1163515439で、クローズアップ現代「“愛国心”って何ですか」の中で、ある授業の様子が映し出されていたというのを知った。その回はまだ見ていないので、見た後で何か付け加えるかもしれない。現段階で言えることを少し書いておきたい。
 私は、そういう授業、もっとはっきり言えば、「中身の無い薄っぺらな授業」はすべきではないと考えている。最近こういう授業や授業の記録などに出会うとげんなりとしてしまう。
 なぜ、中身の無い薄っぺらな授業と評したか。その理由は、「愛国心」という問題を、「日本の四季は美しい」というような問題にすり替えて、それ以上子どもが「愛国心」について考えることを阻害しているからだ。「愛国心」について子どもが考えようとするとき、こういう授業をやると「愛国心」というのは「日本の四季は美しい」と思うこと、「そういうところに住んでいて幸せ」というようなものなんだとしか想起しなくなる。
 しかし、「愛国心」というのは決してそういう性質のものではない。もう少し哲学的なテーマであり、多義的なものであり、「日本の四季」というようなものだけに置き換えられるような問題ではない。
 そして、こういう授業の問題点はもう一つある。それは、限定された価値観だけをそこでは正当化し、美化し、子どもはそれを受け入れさせられることだ。教室には、その価値観に反論できるほどの知識や能力を持った人間がいない。だから、討論なんて生まれない。あるのは想定された範囲内での揺れだけ。「一人の生徒が「スージーさんの国も美しいと思うから…」と反論をしていた。」という。その子どもはその授業のおかしさに気が付いている。しかし、教員はそれをまともに取りあげなかったようだ。そういう授業では、子どもの考える余地も多様な価値観を育むこともしていない。
 以前、前のブログの方で同じようなことを書いたのでそれをそのまま転載しておきます。駄文なので本当は、再構成した方が読みやすいのですが。

 ある教育雑誌で「国家意識の欠落」というのを取りあげていた(何という雑誌かは調べればすぐに判明するのですが一応伏せておきます)。読んで感じたことを少しだけ書いておきます。
 まず、現場の教師の考えを述べたものと小学校と中学校の授業がいくつか提案されているものについては、問題がある。
 ペットボトルをペットボトルへとリサイクルする事を可能とした企業の話を子どもに示して、子どもたちが「日本人でよかった」「日本はすばらしい」と感想を述べたという。
 また、国際的なボランティア団体や天然痘の撲滅に取り組んだ日本人を子どもに紹介し、先程と同じように授業後に「日本人ってすばらしいんだ」「日本ってすごいんだ」という意識を子どもに持たせることができたと述べている。
 この二つに共通するものは何か。個人や企業の成果を個別に評価されるものを、日本というものの評価へとすり替えているという問題だ。確かに日本人が行ったことであり、日本で行われたことだ。しかし、日本人だからできた、日本だからできたことだろうか。他国の人他国ではできなかったのだろうか。そこをきちんと考えないで済ませられるのだろうか。
 提案されている授業では、教師が調べた事実や資料・史料を示して、発問を行いながら子どもたちに価値判断させることなく結論へと導いていく。また、議論を取り入れているが、それは教師が示したものについて子どもたちが検証し、価値判断していくのではなく、教師が示したものはそのまま受け入れさせ、それを基に賛成か反対かなどと討論している。
 教師が事前に資料・史料にあたり、真偽などを検証したとしても子どもにはそれが真実かどうかという検証をさせない。価値判断の基になるのは教師の示したものを受け入れることを前提としている。教科書問題で指摘したことと同じように子どもたちの価値判断の能力を育成するのではなく、価値判断させない授業を展開している。
 この雑誌の中で私が共感できたのは、ある方の次のような主張だけだ。

 本来ならば、開かれた価値観教育をして、適切な国家意識を形成していくことに、社会科は貢献すべきであった。しかし、そういったことを社会が許さなかったのである。その中には、国家意識の形成論者=憲法改悪論者との決めつけ的見方もなされてきた。これでは国家意識の教育は展開できない。
 それでは、国家意識はどのようにして形成していけばよいのだろうか。それは一方的な価値観の押しつけではなく、価値が開かれた問題を、子どもたちが考えていく授業展開が重要である。様々な価値判断が分かれる問題を、科学的に分析し資料を集めて、自分の判断ができるような授業の展開である。

 「価値が開かれている」という視点から考えた時、先程の現場の教師たちの考えや授業はどうだろうか。開かれた価値観教育と言えるだろうか。

(追記)

 例えば、日本から来た学生が、常夏の島は素晴らしいということを言ったという場面を設定し、教員は常夏の島の自然の写真を子どもたちに見せて、常夏の島の自然は素晴らしいんだという。ある子どもは、日本の自然も素晴らしいよと言った。教員はそれに対して、先程の写真を見せながら常夏の島の自然は素晴らしいんだよと強調する。
 このように授業を逆の視点で考えてみると、日本の四季と常夏の島とを比較して、授業することのおかしさが分かると思う。自分たちの住んでいるところの自然を好きだとか、美しいと思うのはいい。しかし、常夏の島の自然を好きだとか、美しいと思うのもいい。そういうものは比較できるものではない。