教育基本法改正の教育言説の問題

教育には何ができないか―教育神話の解体と再生の試み

教育には何ができないか―教育神話の解体と再生の試み

の冒頭で広田氏は苅谷剛彦氏の
ISBN:4121012496:detail

 教育をめぐる議論には、共通する特有のスタイルがある。あるべき理想の教育を想定し、そこから現状を批判する。批判そのものには誰も異論はない。前提となるあるべき教育の理想には、誰も正面からは反対できない崇高な‐抽象的な‐価値が含まれている。一方、そうした教育の理想を掲げていれば、現実的な問題をどう解決するか。その過程でいかなる副作用が生じるかについての構造的把握を欠いたままでも、私たちは教育について語ることができる。ここに教育をめぐる議論のもう一つの特徴がある。

という指摘を引用し、続けてこう述べている。

 その通りである。教育は、単純素朴な思い入れや思い込みで、誰もがいくらでも語れるようなトピックである。誰でも何らかの「理想の教育」を思い描けば、現実の教育をいくらでも批判できる。しかも、その「理想の教育」像の単純さのゆえに生じるかもしれない困った帰結については、考慮が払われない。―教育をめぐる議論が混乱といかがわしさに満ちている原因の一つは、ここにある。教育という営みは、未来に向けたプロジェクトであるため、現在の時点での選択肢のうち、何が一体望ましいかについては、不確実さが必然的につきまとう。だから、もっとも美しい「べき論」やもっともわかりやすいスローガンが、無責任に、はばをきかせることになる。

 教育基本法の改正を主張する側の教育言説の特徴がこれだ。彼らは、「あるべき理想の教育を想定し、そこから現状を批判」しているだけで、教育基本法改正の「副作用」については、語らないか、些細なことだと考えている。「教育の荒廃」というような言葉で教育の問題を一括りにして、個々の問題について議論することもない。
 国会における教育基本法をめぐる議論の多くが「もっとも美しい「べき論」やもっともわかりやすいスローガン」の連呼に陥っている。
 国会では、教育基本法が改正され、将来困った帰結が生じたとき、私達は十分に議論を尽くしたと言えるような議論が行われているだろうか。議論は尽くしたと言って採決を求めているが、これから先についても責任を持てるような議論が国会で行われているだろうか。きちんとした議論が行われないまま、拙速に採決が行われることは、教育の将来に対する責任を放棄することに等しい。