育てるという視点

どうなる『教員免許更新制』
『ダメ』認定 線引き難問

 教員免許の更新制についてはこれまでも何度か取りあげてきた。教員免許の更新制導入の目的が、いわゆる「ダメ教師」の排除にあるなら、私は反対する。
 教員は一体どこで育つのか。それは「現場」だ。しかし、今、その「現場」は教員を育てるような環境にあるだろうか。「即戦力」「実践力」様々なことが言われるが、そこに欠けているのは「育てる」という視点。
 新採の教員がキャリアを積んできた教員よりも様々な点で劣るのは当たり前。しかし、今はそういう当たり前のことが当たり前ではなくなっている。新採であっても一人前の教員であることが求められている。そして、出てきたのが「即席」の教員養成論だ。
 即席の教員養成では、とにかく「現場」を強調し、そこで通用する「技術」を教えていく。そこでは、「職人」と呼ばれるような人たちが持っているような、理論や経験に裏打ちされ、そこに技術があり、知識があるというものではなく、技術だけを習得していく。数ヶ月、あるいは数年程度で、技術の裏打ちとなるような経験を積めるものではない。経験を積むことで得られる、様々なものがそこにはない。
 ザ・教室blogの塩崎氏が次のように指摘されている。

子ども論、社会情勢分析が欠けている授業技術優先主義は、さらなる教育荒廃(子どものせい、親のせいにして終わらせてしまう)を生み出してしまうのではないかと心配しています。

 そして、教員免許更新制という「教員を育てる」という偽りの看板を掲げた「教員排除装置」の導入。教員が10年ごとの研修で資質を向上させたりできるはずがない。そんなことは誰の目にも明らかだ。
 『教育』2006年4月号の「扉のことば」では、

 私たちは、教師が育つ場所の一つは教室と学校である、と思っている。学校の外にある研修機関や自主的な学びの場はもちろん大切な成長の機会である。しかし、実践的問題が不断に生起する教室と学校でこそ成長したい、という教師の思いは強いのではないだろうか。
 これまで、教師の多くは、この教室と学校で自らの教師としての成長を実感することができた。教師の成長は、実践者相互の意見と悩みの交流(同僚性)、それと援助的な指導を頼りにできた先輩教師と管理職の存在(見守り)、によって可能であった。

ということが書いてある。今、導入されようとしている教員免許の更新制にはその視点が無い。10年ごとの研修などという手段を使って、「ダメ教師」を排除することが目的となっているし、それが期待されている。
 例えば、http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20060314/1142305662で紹介した「同僚教員評価制度」はいわゆる「ダメ教師」にしないための取り組みだ。そして、これと同じようなことが、これまでの日本の「現場」にはあった。それは「扉のことば」に書いてあるようなものだ。
 http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20060320/1142868915で教員がアイデンティティの危機に陥っているということを少し書いた。「ダメ教師」の認定を受けた教員の中には、アイデンティティの危機に直面している教員であったり、そこから抜け出せないでもがいている教員が含まれている。教員免許の更新制は、そういう教員でさえも排除されてしまう。
 10年ごとの研修ではなく、排除ではなく、必要なことは日常的に資質を向上させることができるような仕組みを作ることだ。つまり、現場を教員が育つ場となるようにすることだ。
 そして、教員の資質向上策として登場している施策の中には、「権威主義」のものがある。例えば、国や教委などが「認定」した教員をボスとして、その教員の周りに教員が集まり、いつのまにか批判的なことも言わなくなり、ボス教員の言うこと、やることを褒めちぎる。大学の象牙の塔よろしく、閉鎖的な教員社会を生み出している。
 授業を改善しよう、他の人の良いところを自分でも取り入れようと考えるなら、国や教委などが認めるというような「権威」は必要ない。教員同士、互いに授業を見せ合い、批判をし合い、認め合っていく。そういう関係が築いていければいい。「権威」はそういう関係の構築を阻害するだけだ。
 今、「現場」は教員を育てる場でもなく、教員が生き甲斐を感じる場でもない。そういうなかで教員には「成果」が求められ、経験にも知識にも裏打ちされない「技術」だけを持った「即席の」教員が生み出されている。そこには、教員を現場で育てるという視点が欠けている。