戦後教育の歴史と向き合うこと

 『論座』2006年1月号 道場親信「<戦後>そして歴史に向き合うことの意味は何か」のなかで道場氏は次のように述べている。

 とくにこの最後の戦後平和運動・平和主義の再解釈は、ぞれが憲法平和主義の縮小に伴って終焉を迎えている、という歴史像‐それは平和運動内部にも共有されているように思う‐に抵抗し、そのような物語に回収できない「抵抗」の集積として読みかえ、賦活していく可能性に開かれていると私は 考える。
 「戦後日本」という時代と、そこで機能していた人権と民主主義に賭けられた膨大な労力と時間‐たとえば三里塚闘争に投入された労力と時間と資源の量を想起してみよう‐の意味を、そしてこの労力を担保するものとして人々の「拠点」であり続けた戦後憲法の意味を、安易な「押しつけ」憲法論から否定するのでも、あいまいな「時代の変化」論(「時代」の認識が、自家撞着的な歴史意識によって支えられている)から骨抜きにしていくのでもない、開かれた経験、開かれた大衆の憲法経験としてつかみ出していくことが、アプローチとして必要ではないかと考える。
 そうした経験を「歴史」として書き出すこと。だが、そんな「歴史」はまだ書かれていない。私たちはまだ、「戦後」という肥沃な経験の領野がもつ可能性に十分に向き合っていないのだ。そして向き合わないまま、「終わり」を急いでいる。
 歴史を使い捨てるのでなく、歴史と対話すること。「いま」を絶対化する視点‐それは「保守」を標榜するネオリベラリズムにも共通の(没)歴史意識だ‐ではなく、「いま」を相対化し、別様な可能性を学びとること。そして人々の「抵抗」の経験への信頼と敬意を抱きうる歴史意識‐「国家の言うままにならないという記憶」(鶴見俊輔)を分かちもつコミュニティーの方へ。

 戦後教育の「拠点」としての教育基本法が今、改正されようとしている。しかし、その過程の中で戦後教育の歴史と向き合い、そこから何かを学び取ることが本当にできているだろうか。
道場氏の言葉を借りて言うなら、「戦後教育」の経験を「歴史」として書き出すこと。だが、そんな「歴史」はまだ書かれていない。私たちはまだ、「戦後」という肥沃な経験の領野がもつ可能性に十分に向き合っていないのだ。そして向き合わないまま、「終わり」を急いでいるのではないだろうか。
 戦後教育の歴史を「暗黒史」として書き出し、塗りつぶし、教育基本法の改正によってその歴史は真っ白な歴史の新しいページが開かれるのだという。そんな「自家撞着的な歴史意識」になぜ賛同できようか。
 道場氏の言葉を再度繰り返しておく。

 歴史を使い捨てるのでなく、歴史と対話すること。「いま」を絶対化する視点‐それは「保守」を標榜するネオリベラリズムにも共通の(没)歴史意識だ‐ではなく、「いま」を相対化し、別様な可能性を学びとること。そして人々の「抵抗」の経験への信頼と敬意を抱きうる歴史意識‐「国家の言うままにならないという記憶」(鶴見俊輔)を分かちもつコミュニティーの方へ。