短絡的な「反ゆとり教育」論

【正論】京都大学経済研究所所長・西村和雄 「ゆとり教育」廃止こそ子供を救う

 最近、必修科目を未履修のまま卒業させようとしていた高等学校が全国の国公私立校の約1割にあたる540校にのぼることが発覚し、文部科学省が例外規定で生徒救済策を打ち出すなど大きな社会問題となっている。

 背景には、週5日制で授業時間が足りない▽大学入試の多様化で、受験科目数が少なくなっている▽社会科の必修科目が多く、縛りが不自然である−などがある。地理歴史では、世界史が必修であり、他に日本史と地理のうち1科目、合計2科目を選択しなければならない。加えて、公民の中からも1科目を選択する必要があるので、それも入れると、社会から合計3科目をとらなければいけないのである。ちなみに、理科は理科基礎か理科総合を含む2科目、数学は数学基礎と数学Iのどちらか1科目が必修である。

 ゆとり教育による学力低下に加えて、工学部生が物理や数学III(微分積分)を学んでいなかったり、医学部生が生物をとっていないなどの現状が問題とされてきた。こんな現状では、理系の学生には、社会を3科目ではなく2科目にして、その代わりに数学や理科をもっと勉強させる方が合理的ではないか。結局、ゆとり教育による指導要領が悪すぎるのである。過度のジェンダーフリー性教育、自虐的歴史観などを是正するにとどまらず、すべての科目で、指導要領を改善しなければ、今回のような問題の根本的解決にはならないであろう。

 西村氏は、「大学入試の多様化」を背景ある要因の一つとして挙げている。しかし、結局は学習指導要領の問題へと集約している。しかし、それは間違っている。なぜなら、学習指導要領の変化だけでなく、社会状況の変化にも対応してこなかった大学入試の問題を過小評価しているからだ。
 荒井克弘「学力評価システムの日米比較」『教育社会学研究』第72集2003年のなかで荒井氏は、

日本の大学入試は「学科試験」である。学科試験の特徴は「下位の学校教育を強く規定してしまう

と指摘している。しかし、大学入試の改革の過程を見ているとそういう自覚を持って行われてきたとは言い難い。西村氏は、

工学部生が物理や数学III(微分積分)を学んでいなかったり、医学部生が生物をとっていないなどの現状が問題とされてきた。

と指摘しているが、その要因は学習指導要領にあるのではなく、大学入試においてそれが必須科目となっていないことが要因だ。荒井氏は、同論文の中で

問題は「入試の多様化」である。入試と高校教育とが『一体化』していることが学科試験型入試の特性であるとすれば、入試の多様化が高校教育を細分化し、断片化するのを避けられない。「入試の多様化」を実行するには、その前提として入試と高校教育の関係をどのように切り離すのかのアイデアが無ければならなかった。ところが結局、必要な準備は講じられないまま、「入試の多様化」は進行し、入学後の大学教育との間の不整合と、高校における細分化された受験シフトとを随所に撒き散らすことになった。

と指摘している。荒井氏の指摘から明らかなように、今回の未履修の問題は学習指導要領の問題ではなく大学入試の問題であることが分かる。しかし、政府も西村氏も大学入試の問題ではなく、学習指導要領を変えることを主張している。それは、きちんとした改革を怠ってきた大学の責任を不問に付すことになる。
 西村氏は、

 いじめもなくならない。それどころか、小学生や中学生の自殺の原因となって、大きな社会問題になっている。

 いじめを無くすには、少人数学級が効果的である。アメリカでは1980年代から少人数学級の大規模な実験と調査を行い、少人数学級にすることは、学力が向上するだけでなく、子供たちの行動面の問題も改善することが報告されている。少人数学級の実現が財政的に難しいのなら、子供たちを無用なストレス下においている現行の評価制度を廃止することである。

と述べ、以下「内申書」と「絶対評価」が問題であると指摘している。しかし、これも間違いだ。まず、内申書の問題について、内申書は本来(本来と言うべきではないかもしれないが)その子どもの状況について進学先の学校が把握するための資料であり、その子どもの学力を証明するものではなく、それを点数化し選抜に利用するようなものではない。
 内申書を点数化し、選抜の資料とするために、その子どもの状況をきちんと記述されない。そのために、入学後にそんなはずではなかったというようなことが起きている。現行の「内申書」という制度は機能していない。だから、廃止しても一向に構わない。だが、西村氏は、そこを指摘せずに「絶対評価」の問題に集約している。
 日本では、約50年間、学校における評価は「相対評価」であった。それが平成十三年(2001年)に、絶対評価へと変更された。
 しかし、今でも相対評価を維持するべきだという主張がある。そう主張する理由の多くが次のようなものである。「絶対評価では主観的な要素が強くなる。」「相対評価は客観性が高い。」「絶対評価を加味した相対評価が適切である。」この三つについては、後で梶田叡一『ISBN:4641112266:title』から引用してその主張を崩していく。
 平成三年に中央教育審議会が「新しい時代に対応する教育の諸制度の改革について」という答申を出している。その答申の中に次のような件がある。

 日本の教育が平等でかつ効率的であるのは何によっているのか。すなわちアメリカ型の教育の平等化・大衆化に耐えながら,なお学力水準を維持し,産業社会へ人材を効果的に送り出す適応性の高さと柔軟さを誇り得るのはいったい何によってであろうか。それは何とも逆説的なことだが,あの欝(うつ)陶しい学校間「格差」−息苦しい進学競争に日本人を駆り立てる一因となっている−によっているのである。
 学校間の「格差」あるいは「序列」は,現在,学生生徒を偏差値によって区分けし,国民の多くに抑圧感情と閉塞(そく)感情を与えている,日本の教育の病理のいわば最大の問題点である。われわれが何とかして乗り越えようとしてもどうにもならなかった障壁であった。しかし別の角度から見れば,学校間「格差」ないし「序列」は,大量の高校生や大学生に高校卒,大学卒という同一資格を与えてその平等への欲求を満足させ,他方,学力別に区分けしたグループごとに適切な教育を与えるというかたちで,効率性の維持にも役立っている,見方によれば,便利なシステムだとも言えるのである。

 このシステムを支えていたものが、戦後50年という長きにわたって行われてきた「相対評価」だった。
 日本における評価の変遷を簡単に述べると、戦後、アメリカの影響を受けて相対評価が導入される。次に、相対評価絶対評価を加味したものとなり、絶対評価へと変わっていった。
 さらに指導要録の変遷を見ていくと、昭和30年に所見の欄が新設され、教科ごとに観点が示され、それを評価する方式になる。昭和36年、昭和46年の改訂で、相対評価絶対評価を加味したものになる。昭和55年には、所見欄から観点別学習状況の欄を切り離して、観点ごとに絶対評価を行うことにした。また、観点の項目に「関心・態度」が追加された。平成三年には、それまでの評定、観点別学習状況という配列から、観点別学習状況、評定という配列になり、観点の項目で「関心・態度」を一番目に配列を変更した。平成十三年には、評定を絶対評価で行うようになった。
 評価の変遷を見ていくと、中教審答申にあるように、便利なシステムを支えてきた相対評価がしだいに絶対評価へと変化してきている。これはなぜか、その答えは、最初に示した相対評価を維持すべきとする理由が崩れてきたことにある。
 「絶対評価では主観的な要素が強くなる。」「相対評価は客観性が高い。」「絶対評価を加味した相対評価が適切である。」という三点について、梶田氏は著書の中でそれぞれを再検討している。

 まず、「絶対評価では主観的な要素が強くなる。」という主張について。評価の基準を評価者の内的なものにするか、外的なものにするかという点で、両者には大きな違いが出る。絶対評価は、本来、評価者の主観的な認定によるのではなく、カリキュラムから導き出される客観的な評価基準によって評価するものである。よって、絶対評価では教師の主観的な要素が強くなるという主張は妥当ではない。
 次に、「相対評価は客観性が高い。」という主張について。ある学校では、学級の半数が一応満足できる学力水準に達しているのに対して、別の学校では、学級の上位数人がかろうじてその水準に達しているという学校間格差があった場合、初めの学校で3とされた子どもであっても、一応満足できる学力水準に達しているのに対して、もう一方の学校では4とされた子であっても満足できる学力水準に達していないということになる。また、相対評価の基盤となる優劣のはんだんを、どのような内容の学力におけるものとするかということが教師によって大幅に異なlたたものになりがちである。よって、相対評価の客観性というのは限定的なものでしかなく、相対評価は客観性が高いという主張は妥当ではない。
 三つ目に、「絶対評価を加味した相対評価が適切である。」という主張について。原理的に異なった絶対評価相対評価に加味することになると、共通テストなどで異なる学校間などで評点を相互に換算することも、評点自体に意味を持たせることも不可能になる。よって、絶対評価を加味した相対評価が適切であるという主張は妥当ではない。

 以上のような梶田氏の再検討によれば、相対評価を支持する主張がことごとく崩れるということになる。
 西村氏は、

評価方法をより主観的なものに変える度に、子供たちのいじめや非行は増えているようにさえ思える。

と述べているが、それは短絡的な見方だ。絶対評価は選抜の道具として利用することは適切ではない。それがきちんと理解されていれば、評価方法が子どものいじめや非行と結びつくことはない。
 西村氏の主張は短絡的で一面的な見方であり、その結果西村氏が示した処方せんでは問題は一向に解決しない。