新しいものを模索する

ISBN:4130513079:detail
 「第4章 新しい時代にむけた教師の専門職性の再編」のなかでウィッティは次のように述べている。

 教師教育に関しては、学校に基礎をおく養成と国が公的に規定する基準とが合わさって、周辺部分では多様な「局所的な」専門職性が生まれるように見えながらも、教師の専門職性の共通要素はますます国が公的に規定する教師教育のナショナル・カリキュラムに制約されるようになると思われる。より進んだ段階では、専門職全体がより多様化し階層化されるだろう。これらの発展は一定の「ポストモダンな」特徴をもっているかもしれないが、私は、教師が専門職として健全な状態であるためには、より広く定義された専門職としての共通のアイデンティティを維持するために、つねに努力することが必要だと考える。これを可能にしうるのは教職総合評議会*1であろう。もっとも、教職総合評議会が単に従来からの意味での専門職性の定義を守ろうとしているのであれば、無理であるが。また、医師や法曹の「旧来の」専門職性をまねようとしているだけであっても、無理だろう。しかしながら、どのようなやりかたであれ教師の専門職性についてこれまでとは異なる概念を発展させようとするならば、専門的なパートナーシップだけではなく広い基盤をもつ政治的支持を動員することが必ず必要になる。
 これは、近年、一方で教員養成の担当者に対する攻撃が弱まる気配のないまま、政府とメディアが社会と教師の間に「低い信頼」関係をつくり出そうとしているからである。こうした文脈においては、我々が専門職の権限を乱用し弱者の利益を犠牲にして自己の利益を追求し、そうすることで、意図せざるままに社会的排除を促進している、と主張する批判者の非難の中には、深刻に受けとめねばならないものがある。また、専門職自身、つねに自己のより広い正統性を高めようとしてきたわけではない。教育サービスの側[教師]が攻撃から自らを守ろうとするときには、もっぱら政府と雇用主と組合の間の協議という「旧い」教育政治の枠組みによっており、そこではニューライトがその後首尾よくアピールするようになった構成員‐とりわけ親や産業界‐が、まったく視野に入っていなかった。誰が、そして何のために、教師の専門職性を定義するのに関与する正当な権利をもつのか、という根本的な問い直しをしなければならない。
 保守党政府は「提供者の専横」に対する解決策は、国家統制と市場の諸力との組み合わせの中にあると見なす傾向にある。新労働党は、専門職を「現代化」し、経営者主義的な前提と実績給に基づく新しい処遇によって専門職である教師を国家プロジェクトに取り込むことをねらいつつ、国家による規制を強化した。同時に、新労働党は教育専門職に教職総合評議会を与えたが、長期的に見た場合のその役割と、教員養成担当機関や教育水準局、教育雇用省との関係についてはまだこれから策定されねばならない。私自身がおそれるのは、教職総合評議会をめぐって、伝統的な専門職モデルを守ろうとする者と国家主義的な専門職モデルをとる者との間に戦線が引かれることである。

 そして、ウィッティは「民主主義的な専門職性」の可能性について述べている。ウィッティは、

 「民主主義的な専門職性」においては、専門職の仕事を脱神秘化し、教師と、生徒・親・コミュニティのメンバーといった疎外されてきた構成員‐これまでは、専門職ないしは国家がこの人たちのために意思決定をしてきた‐との間に連携をつくりあげることが追求される。

と述べ、

 もし、利他主義と公的サービスが専門職としての戦略目標の中で高い位置を占め続けるのであれば、この次なされる教師の専門職性の再編は、教師の専門的知識を二一世紀のための新しい民主主義的なプロジェクトに役立たせるものでなければならないだろう。

としている。
 ウィッティが述べている教師の「民主主義的な専門職性」というのは、「日教組」などウィッティの言う「「旧い」教育政治の枠組み」から脱却するための一つの可能性を示唆している。これからの教師の在り方の一つとして考えてみるのも良いのではないだろうか。

*1:教職総合評議会(The General Teaching Council for England)http://www.gtce.org.uk/