学習指導要領とは何か

ISBN:4887131925:detail
 この中でアップル(マイケル・W・アップル)は次のように述べている。

 カリキュラムは、国の行政文章及び教科書といったテクスト(texts)あるいは教室における実践という形で、なんらかの経験を経て姿を現すが、それは単なる価値中立的な知識の集合では決してない。カリキュラムはいかなる時も、ある誰かの選択、ある集団の見方に基づく正統的知識つまり選択的伝統の中核的な部分を構成しているのである。またそれは、一つの国の国民を組織したり解体したりする、文化的・政治的・経済的な葛藤、緊張、及び妥協の産物でもある。(中略)ある特定の集団の知識を最も正統である、つまり公的知識であると認定することは、一方で他の集団の知識が日の目を見ないでいることを意味する。このことを考えると、何が公的知識であるかという決定は、誰が社会的権力を握っているのかに関して、非常に重要なことを語っているといえる。

 私達は、カリキュラムの持つポリティックスを認識せずにそれを受け容れてしまっている。国旗・国歌の問題にしてもそうで、学習指導要領は価値中立のものであると考え、そこに示されたものが(極端な言い方をすれば)あたかも真理であるかのように捉えられ、それに少数者が従うことを強いている。アップルは、「ある特定の集団の知識を最も正統である、つまり公的知識であると認定することは、一方で他の集団の知識が日の目を見ないでいることを意味する。」と指摘している。学習指導要領が法的拘束力を持つとし、その拘束力を強めようとする動きがある。それは、学習指導要領で日の目を見なかった集団の知識を切り捨てていくことになる。それは多様性を失うことでもある。同書の中で長尾彰夫氏は次のように述べている。

 わが国においては、共通の文化、共通のカリキュラム、共通の民族、共通の日本といった同質性(homogeneity)が暗黙のうちに前提され、肯定されている場合がしばしば見うけられる。そして暗黙の同質性を前提にした多様化は、それがいかに異質性(heterogeneity)を含むかにみせかけつつも、その実は単なる同質性のなかでの差異化にしか過ぎぬものになっていく。そしてそのような差異化は多様性が本来的にもっているダイナミズムを持つことができない。そればかりか、暗黙の同質性を前提にした単なる差異の一面的強調は、その前提としている同質性への目をくらませ、それへの批判を封じこめていくことにすらなっていく。そこではまさしく利害の不平等が隠された形で巧妙に再生産されていくだけなのである。
 我が国においても、経済的、政治的、文化的といった諸領域において、階級(class)、性(gender)をめぐっての違い、利害の対立や矛盾が存在することは明らかである。加えて、被差別部落、在日韓国朝鮮人アイヌ(ウタリ)や小笠原先住民、更にはニューカマーといわれる外国人労働者問題等をみれば、そこには世襲的身分(caste)、民族(ethnicity)、人種(race)をめぐってのするどい対立や矛盾がある。こうしたことへの注目は、わが国における、共通の文化、共通のカリキュラム、共通の民族、共通の日本人といった暗黙の同質性がいかに危ういものであるかを改めて認識させてくれよう。そこには、まぎれもなく、社会的立場、生き方、アイデンティティの多様な違いが存在している。
 もし、われわれが多様性というものを、生きた現実のなかでとらえようとするならば、こうした社会的な立場、生き方、アイデンティティのあり方における多様性にこそまず注目すべきなのである。そして、こうした社会的立場、生き方、アイデンティティのあり方における多様性を包み隠したまま、共通の文化、共通のカリキュラムという土俵のなかでみられるあれこれの違いへの対応を、あたかも多様性の尊重であるかのようにすり変えていく構造を批判していかなければならない。

 今、学習指導要領という一つの装置を使って、「共通の文化、共通のカリキュラム、共通の民族、共通の日本といった同質性(homogeneity)」というものが強調され、あらゆるところにそれを浸透させようという動きがある。それは長尾氏が言うように「社会的立場、生き方、アイデンティティのあり方における多様性を包み隠したまま、共通の文化、共通のカリキュラムという土俵のなかでみられるあれこれの違いへの対応を、あたかも多様性の尊重であるかのようにすり変えていく」ことに他ならない。学習指導要領の持つポリティックスはそこで機能している。