公と私

ISBN:4275003845:detail
 仲正昌樹現代社会における「公共圏」」より引用。

 ラディカル・フェミニズムや、カルチュラル・スタディーズ、ポスト・コロニアル・スタディーズ、フーコーの影響を受けた言説分析などでは、そうした「私的領域」に隠れてきた抑圧・暴力・“権利”侵害などの問題が、公的な光の下に照らし出されるのは好ましいことと見倣される傾向があるが、それらの「問題」の根本的な解決のために「法」が本格的に導入されればされるほど、人々が自らの生き方に適した“価値観”を自由に育める余地が縮小していく可能性がある。「法」は、我々の行為に一定の枠をはめて、「逸脱」を阻止するように作用するからである。人間の思想・信条は、アプリオリに与えられるものでも、公的な領域において瞬時に“選択”されるものでもなく、一定の年月をかけて、様々な社会的・文化的な文脈が織り込まれている私的領域の中で形成されてくるものである。つまり、私的領域において形成される個人の社会的・文化的なアイデンティティや価値観、ライフスタイルと、公的領域における、それらに根差した「法=権利主体」としての「自由な言論活動」は表裏一体の関係にあるわけである。前者が後者を動機付けていると言っても過言ではないだろう。近代法は、少なくとも建て前上は、後者、つまり公的領域における「法=権利主体」の活動として「現象」している部分だけを規制し、それ“以前”の部分は放置していた。そうした建て前が崩れて、「法」が済し崩し的に「私的領域」に入ってきて、人々の振る舞いを「内」側からもコントロールするようにすれば、「自由」はその“実質”を失うことになりかねない。フーコーが「生・権力bio‐power」論という形で示唆しているように、法的な「規範 norm」によって、各主体(subject)の生き方における「正常性 normality」が産出され、主体がそれに無自覚的に従う(be subject to)ようになるとすれば、“主体にとっての自由”は、人為的に外から与えられた“自由”にすぎない、ということになるだろう。