虚飾と欺瞞を削ぎ落とす

 先日いただいた宿題の答えをずっと考えていた。今、教員に対する批判が高まっている。そんな中で教員はどうすればいいのかということを。考えたことを書いてみたい。
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佐藤学「教師文化の構造‐教育実践研究の立場から」の冒頭で佐藤氏は次のように述べている。

 一般に語られる教師文化は矛盾に満ちている。人々は、教師の権威的体質を批判しながら、厳格な教育を要求し、教師の偽善的ふるまいを批判しながら、高潔な倫理と私心のない献身性を讃えている。また、教師の学問的意識や教養の不足を嘆く声の一方で、学識よりも人格だという俗論が後を絶たず、教師の保守意識を嘆く声の一方で、政治意識の過剰に対する警告が「中立性」を盾として繰り返される。さらに、教師の同族意識が批判される一方で、職場における連帯の欠如が問題にされ、専門的な知識や技術の不足を嘆く声の一方で、教師は専門家でなく一般人であるべきだという意見が述べられる。これら矛盾に満ちて語られる教師文化の実態と規範をどう理解したらいいのだろうか。

 マスコミなどで語られる教師像はまさに佐藤氏が指摘しているように矛盾に満ちている。その矛盾は教員を追いつめている。その中で、教員同士で私はあなたとは違うと線引きをし、自分だけは違うんだという意識を持ち、自分だけを安全圏に逃げ込ませるようなことも起こっている。
 佐藤氏は、『ISBN:4595110383:title』の中でウィラード・ウォーラーが次のように指摘しているのを紹介している。

 ウォーラーは「教師文化のステレオタイプ」を記述し、教師文化の最大の問題として「非人間性(impersonality)」について論じています。教師は「権威的」で「欺瞞的」な人格の歪みを職業生活の中で形成しているというのです。ウォーラーは、教師が「非人間的」になる原因を二つ指摘しています。一つは、人々が教師に対して道徳教育の過剰な期待を寄せている問題です。子どもを道徳的に説教することを過剰に期待されている教師は、自らを「徳の権化」にし「欺瞞」を繰り返してしまう状況におかれていると言うのです。「教師の仕事は投げた手に必ず戻ってくるブーメランに似ている」と、ウォーラーは巧みな比喩で表現していますが、確かに、教師は子どもに道徳的な説教を繰り返すことによって自らを「権威的」で「欺瞞的」な人格に形成する結果に陥っています。教師の「非人間性」のもう一つの原因は教師の地域からの逃避にあるとウォーラーは述べています。地域の人々と交わらない教師は、教師同士の関係の中で閉じた狭い世界を築いてしまいがちです。

 教員がいじめの発端になったという問題や教員の不祥事の問題を考えるとき、ウォーラーの指摘は的を射た指摘であることに気が付く。教師の文化が「権威的」で「欺瞞的」な人格の歪みを形成してしまうものなのだとしたら、教員はそのことに自覚的であることが重要だろうと思う。
 金八先生GTO、ごくせんや女王の教室など教員を主人公にしたドラマがいくつも製作されてきた。そのどれにも共通していることがある。それは教員の日常と教員が自分自身の存在意義について悩む姿が描かれないということだ。ドラマに登場する教員は子どもたちのことを何より考え、優先し行動している。それは教員の理想像だ。誰もがそうありたいと考えている。しかし、教員の現実はドラマで描かれるものとは落差がある。落差があるということは理解されているようで理解されていない。教員がどのような環境に置かれていても、常に理想の姿を求められている。その落差はそこでは忘れられている。
 佐藤学『教師というアポリア』の中で佐藤氏は次のようなことを指摘している。

 教師に関する教育学の言説は、「教師はいかにあるべきか」(ought to)を問う規範的接近か、「いかにして教師になるか(養成するか)」(becomeing a teacher<educating a teacher>)を問う生成的<教育的>接近において議論されてきた。(中略)この二つの接近は、同じコインの両面のような関係をなしている。しかし、この二つの接近は、その中間に横たわるもう一つの接近を無意識のうちに排除してきたと言えよう。「教師であること(being a teacher)はどういうことなのか」「教師であることは何を意味しているのか」そして「なぜ私(あなた)は教師なのか」を問う存在論的な接近(ontological approach)である。

 佐藤氏の言う「教師であること(being a teacher)はどういうことなのか」「教師であることは何を意味しているのか」そして「なぜ私(あなた)は教師なのか」を問う存在論的な接近(ontological approach)」が今重要なのではないかと考えている。そうすることで、教員は「非人間性」を持つ教師文化の中で、日々苦悶する自分の姿を自覚する。そうすることで、教員は虚飾と欺瞞とを削ぎ落とし、自分の存在意義を見出せるのではないかと思う。
 そして、宿題に対する答えは、教員は虚飾と欺瞞とを削ぎ落とし、そして、自分日常や苦悶していることを訥々と語ることが必要なのではないだろうかということだ。それは、教員の権威を失墜させるかもしれない。しかし、権威や欺瞞に守られながら語るよりもその方が理解されるのではないかと思う。指導力とかそういうもので武装して、権威を保とうとするその姿を見せるより、自分の姿をそのままさらけ出す方がいいのではないか。ドラマに描かれる理想の教師像という着ぐるみを着て苦悶するより、そのほうが良いのではないだろうか。私は、教員自ら自分の職業を「聖職」だと語ることに違和感があるし、教員に「聖職者」であれという主張にも違和感がある。それは、どちらも自分自身の本当の姿を虚飾と欺瞞で覆い尽くすことになると考えているからだ。繰り返しになるが、教員は「教師であること(being a teacher)はどういうことなのか」「教師であることは何を意味しているのか」そして「なぜ私(あなた)は教師なのか」を問い、自分を見つめ直して、それを語ること。小手先の改革よりもそれが重要なのではないかと思う。