アップル(マイケル・W・アップル)の指摘

ISBN:4887131925:detail

 この中でアップルは次のように指摘している。以下引用。

 市場化と強い政府の組み合わせによる大きな効果の一つは「公の議論から教育政策を取り除くこと」である。すなわち、選択は個々の親にゆだねられ、「意図されない結果という隠された手がその他のことを行う」のである。その過程においては、教育はその目的や手段が公に議論される、公の政治領域の重要な一部であるという、まさにその考えが衰弱する。
 学校教育をめぐる政策や実践に関する人々の権利を高めようとする民主的試みと、新自由主義が強調する市場化や私営化との間には、大きな違いがある。前者の目的はポリティックスを拡張すること、すなわち「公の議論、論争、及び交渉を促進する方法を考案することによって民主的実践を復活させること」である。これは民主主義を教育的な実践とみる、ある一つの民主主義観に本質的に基づいている。他方、後者はポリティックスを密閉することをねらっている。それは、すべての政治を「選択」と「消費」という倫理つまり経済的に還元することを求めている。[後者の見方にたてば]世界は、本質的には、巨大なスーパーマーケットになる。
 私的部門を拡大し、その結果として購入と販売‐一語で言えば、競争‐が社会の支配的倫理となることは、一連の密接に連関した前提を伴う。すなわち、先のような条件の下でより多くの個人がより一生懸命働くように動機づけられると仮定している。結局、私たちは公の機関(公僕)は非効率的で怠惰であるのに対して、私的企業は効果的で精力的であると「すでに知って」いる。自分の利益や競争的であることが創造性をもたらすエンジンであると仮定している。私たちが今持っているものを代えるために、より多くの知識や実験が創り出され用いられる。その過程においては、無駄がより生み出されなくなる。需要と供給はある種の釣り合いを保つ。こうして、一つのより効率的な機構が造られる。それは管理上の経費を最小化し、究極的に資源をより広く分配するものである。
 このことはもちろん、単に少数の者に特権を与えることだけを意味しているものではない。しかしながら、ここで言われていることは、「誰でも、もちろん登山に非常に長じており、また登山をするための制度や機関、及び財政上の資源を有しているという条件を満たせば、一つの例外もなくアイガー峰の北壁やエベレストによじ登る権利をもっている」と言うのに等しいのである。
 すなわち、保守的な社会では、社会の私的な資源へアクセスできる機会は、おおむね個人の支払い能力に依存している。(ここで、保守復権の企てがほとんどすべての社会的資源を私営化しようとしするものであることを念頭においていてほしい。)そしてこれは、その人が企業的または効率的に富を獲得できる特定の階級の人々と同じタイプの性質(class type)の持ち主であるかどうかによる。他方、社会の公的資源(急速に減少している部分だが)へのアクセスは、必要があるかどうかによっている。保守的な社会では、前者(社会の私的資源)が最大化され、後者(公的資源)は最小化される。