何もかも常識、当たり前で覆い尽くしてしまう危険

 よく、教員の言動について批判する際に、民間の会社組織なら当たり前のこと、常識だよということを言う。しかし、民間の会社組織の常識が教員に対しても本当に適用できるの?と思う。日経新聞のこの社説のような主張には、教育を経済と同一視して経済でうまくいっていること、求められていることは、教育でも当然うまくいくし、求められるのだという考えが背景にある。でも、本当にそうかなと思う。確かに教育と経済は様々なところで結びついている。しかし、全く同じものではない。教育には教育の固有性がある。ここでは、教員に限って書いておきたい。
 以前、「教師は世間知らずという批判は妥当か」というのを書いた。それをそのままここに書き写しておきたい。
 教師は世間知らずであると言うが、そう批判する方々は教師という職業がおかれている社会や文化についてどれくらい知っておられるだろうか。教師と同じように大学を卒業しそのまま専門的な社会へと入っていく方々は同じように世間知らずではないか。また、ある企業の社員がその外にいるものから見ると信じられないような行動を選択していても、その企業では理にかなった行動であるということがある。また、自文化以外の文化について、その文化の中に身を置くこともせずに自分たちの価値観で野蛮であると批判するのは間違いであるということは誰でも知っているはずだ。
 教師の社会やその文化について多くの人は「知っている」と錯覚している。自分たちは学校で学んできた経験がある。その中で教師を見てきた。それは小さな窓からその内側にある社会を垣間見ただけであるにも関わらず「知っている」と思っている。
 教師は外の世界で学ぶことを求められるが、その逆はほとんど無い。しかし、教師の社会に入らなければその社会に学ぶべきものがあっても外にいるものは学ぶことはできないし、その学ぶべきことがあるかどうかさえ外にいるだけでは分からない。
 以前、「教職の専門性と教師文化に関する研究:日本・中国・イギリスの3カ国比較」 藤田英典・名越清家・油布佐和子・紅林伸幸・山田真紀・中澤渉 日本教社会学会大会発表論文集 55号 2003年 の冒頭部から引用をした。

 この十数年の改革動向は教職に対する偏見と教師に対する不信を前提にしており、非常に皮肉で歪んだものであった。教師の資質向上が重要だと言い続けてきたものの、実際に進められている改革・政策は、業績主義的・管理主義的な教員評価・処遇制度や市場的競争原理を重視した学校評価学校選択制の導入・拡大に象徴されるように、一面的な外在的要因とそれに基づく外発的動機づけを重視するというものである。

 教師のおかれている社会や文化について知らないままに批判や改革が叫ばれたとしてもそれは必ずしも妥当な批判や改革とはならない。教師は世間知らずであるという批判は的外れではない。しかし、その批判が教師の社会や文化について考慮されることもなく行われることは妥当ではないと考えている。