教育の政治的中立

1954年1月22日 読売新聞社説を引用

社説 教育の中立性を破るは誰か

 教員の政治活動制限問題については、さきに中央教育審議会が答申をした際にも、われわれは教育の反動化をいましめて、無理な法制化は避けるべきだと主張したのであるが、これを最大な目標として登場した大達文政は、かねて用意の法案の具体化をいそぎ「教育公務員特例法の一部改正法律案」なるものをまとめあげたようである。伝えられるところでは、すでに国家、地方公務員法によって、政治活動の制限を受けている国立、公立の教職員が、両公務員法のワクから、この教育公務員特例法に移され、新しい改正法一本で、その政治活動を制限されようとしている。教員の政治活動制限の問題が、世間の論議に上ったころは、もっぱら自由党日教組対策としてみられていたが、国立、公立の大学教職員までもこの新しい改正法の中に織り込もうということであると、問題の性格はまるでちがったものとなる。それはもはや、日教組対策などという甘いものではない。権力による教育の支配をたくらむものという非難もあながちヒガミとばかりは言えない重大さを感じる。しかもこの措置が「教育の中立性確保のため」という美名をかかげてとられようとしているだけに、事は教育の基本理念に照らしても重大である。
 民主主義のいう教育の中立性とは、低い現実世界で争いあう権力政治を、高い理想の人間像に照らして公平に批判する中から生れ、現実の人間とその生活をそうした理想像に近づけて行くよう努力する人間の善意の中に存在する。わが国の教育の理想はすでに教育基本法で明らかなごとく「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成」にある。この理想を時の権力や政策の支配に力をかりて崩壊させようとすることは、そのこと自体すでに最も非中立的である。
 しかるに、今くわだてられている教育公務員特例法の改正では、おそらく、教師としては、どんな現実政治の批判も許されなくなるだろう。なぜなら、法律違反の取締りのためには、警察権力は自由に教場に出入して、教師個人々々の言動をさぐるであろうし、懲役と罰金の処罰は、教師たちに真理の追求をやめさせて、一切に無批判な態度をとらせるであろう。批判を許されない人たちは、やがては考える自由さえ失うにちがいない。もはやそれは教師としてばかりではなく、人間としても生きている姿ではない。教育を受ける子供たちの不幸はいうをまたない。このようなことでは「自主的精神にみちた国民の育成」を期した教育基本法も死滅同然である。
 かくして、この次にこの政府の文教政策が教師と国民に押しつけようとしているものが何であるか、おおよその推測に難くはない。再軍備のためのみの教育であり、軍備国家を背景とした反民主的憲法改正のための教育であるという非難のわくゆえんである。
 われわれは、政治の現実性からいって、一方的に再軍備憲法改正に反対する者にけっしてくみするものではない。現実が必要とすれば、理想はしばらくすえおき、多数国民の納得の上で、その実現に協力する場合のあることもわきまえている。それにはそうした重大事の是非の批判が自由に活発に行われた上でのことである。この是非の討論をつくして、納得への道をつけるのが、基本法にもうたっている「良識ある公民たるに必要な政治的教養」である。基本法は既にこれを「教育上尊重しなければならない」と規定している。このような基本法を無視して何の教育の中立性であろうか。
 角をためてウシを殺すがごとき法的措置はそれ自身中立性の失落であり、ひたすらに教育基本法を守ってこそ教育の真の中立性は保たれる。