教育勅語について少しだけ

 「教育勅語には「徳目」が並べてあるだけ。何が問題なんだ。教育勅語を復活させても構わないだろう。」とか、「教育勅語の復活には問題があるという。それなら、教育基本法教育勅語と同じように「徳目」を並べればいい。」という主張がある。どちらの主張も間違っている。
 法律に「徳目」を並べることについて。http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20060627/1151388099で紹介した現行の教育基本法に対する質疑の中から澤田牛麿氏の次のような主張を引用しておく。

 只今上程になつて居りまする教育基本法と云ふものは、私共は實に數年貴族院に列して居りまするけれども、初めて會つた珍しい法案であります、仍て一言疑問のある所を申述べて御答辯を得たいと思ひます、結論から端的に申しますと、此の法案は法案ぢやなくて、説法ではないかと私は思ひます、説教ではないかと思ひます、法律と道徳との分野は、是は私が喋々する迄もなく決つて居ることでありまして、倫理の講義や國民の心得などと云ふことを一々法律で規定する必要はなからうと思ひます、それよりはもつと法律と云ふものは進んで居るものと私は法學生の一人として思ふのであります、さう云ふ點に付て此の立案者は非常に倫理の講義が好きな傾向を持つて居るやうでありまするが、さう迄にしなくちやならぬものであらうか、

 また、澤田氏は次のようにも主張している。

 又斯う云ふ説法をしなければ日本人が教育に付て分らぬと云ふことならば、それは餘りに日本人を侮辱した言葉である、斯う云ふ説教をしなくても、教育の大事なこと位は日本人は知つて居ると思ふ、如何にしても此の基本法と云ふものは私共には了解出來ない、此の點に付て金森國務大臣なり、文部大臣なり、どなたでも宜しうございますが、法律と云ふことに付ての觀念に付て答辯を願ひたい、憲法の審議の際でも私は此の議論を述べたのでありまするが、其の時は金森國務大臣の御答辯は、憲法と云ふものは宣言、或は其の主義と云ふやうなことを言つても宜いのだ、單に法規と云ふ所謂ノルムを規定するのみでなくて、一種の宣言、一種の理想を述べても宜いものであると云ふ御答辯でありましたが、成る程憲法と云ふものは、稍稍政治的の分子が非常に多いものであるから、或は空言、空理、空想、理想を述べてもそれは宜いかも知れぬけれども、苟も法律となつて、的確な法規を定むべき一つの形式となつてはそんなに空理、空論を述べて居るものではないと思ふ、私は其の説法をすると云ふことは甚だ國民を侮辱したことであると思ふ、文部大臣も是は宣言であると言はれ、或は理念であると言はれた、宣言とか理念と云ふものは内閣總理大臣の演説でも宜しいし、教育勅語に代りたいと思ふならば、新憲法に依つて大變偉くなつて來た總理大臣が居るから、其の總理大臣が演説をすればそれで宜しい、法律で以てさう云ふことを決めなければならぬと云ふことは何處にあるのであるか、それは私は日本國民を侮辱した觀念ではないかと、甚だ其の點に付て疑を持つのであります

 澤田氏の主張にあるように、「倫理の講義や國民の心得などと云ふことを一々法律で規定する必要は」ないのであり、法律にそういうものを並べて「説法をすると云ふことは甚だ國民を侮辱したこと」だ。だから、勅語という形ではなく法律に盛り込めばいいというのは間違っている。
 教育勅語をそのまま復活させることは、現在ではできないことであり、法律に徳目を並べるなどということは国民をバカにしたのと同じことだ。だから、どちらも間違っている。

(この部分は余計なのでここに移動しました。)
 法律は確かに社会に対して大きな影響を与える。しかし、現行の教育基本法がそういう影響力を行使してきたかどうかは疑わしい。なぜなら、教育基本法は教育における憲法というような扱いではなく、実際には教育法の中の一つという位置付けでしかなかったからだ。そういう位置付けしか与えられてこなかったものが、社会にそれほど大きな影響力を持ったとは考えられない。