教育格差と教育の公共性

 デイヴィッド・F・ラバリーは、「脱出不能‐公共財としての公教育」の中で次のように述べている。

 教育における公益は、個々の消費者の私益の総体には還元できない。というのは、私益を追求する個人を全部集めても、誰も他人の子どもの教育を省みようとすることにはならないからである。学校システムが個々の消費者に私的財を提供するという圧力に晒されているなら、すなわち、よい仕事や社会的地位や快適な生活といった私的財の獲得競争において有利な立場に立つ機会を提供するといった圧力に晒されているなら、そのときは、教育の広範な公的便益が浸食されることになろう。こうした消費者優先の学校システムは、教育経験を著しく階層化し、力のある消費者に対して、システムからの利益を勝ち取る機会を拡大することになるであろう。それは、教育システムを、勝者と敗者を作り出す選別・選抜メカニズムとしての性質の強いものにしていく。しかも、この場合、敗者がいるからこそ、勝つことに意味があるということになる。

 日本の教育の現状は、「学校システムが個々の消費者に私的財を提供するという圧力に晒され」、「教育の広範な公的便益が浸食され」ている状況だと考えられる。今、指摘されている教育格差の問題は、そういう状況の下で進行してきたと考えられる。
 教育格差の問題では、次のようなことが指摘できる。公教育(公立の学校における教育)の崩壊によって教育格差が進行してきたというのは誤りであること。二つ目に、安倍晋三氏などが提唱している「教育バウチャー制度」の導入によって教育格差が解消されるというものだ。
 まず、公教育の崩壊が教育格差を進行してきたのではないと考える理由を述べたい。今、進行している教育格差の問題は、教育を「私的財」として見なす傾向が強まり、ある個人がみんなと同じような教育を受けられないのは、その個人が不利益を被っていることであり、それが「格差」であると考えられている。
 つまり、ある個人が「よい仕事や社会的地位や快適な生活といった私的財の獲得競争において」不利な状況におかれることを問題視している。
 その格差が進行したのは、ラバリーが指摘しているように、教育システムが「勝者と敗者を作り出す選別・選抜メカニズムとしての性質の強いもの」になったからであり、公教育の崩壊は、「教育の広範な公的便益が浸食され」たことによる。
 最近の教育改革は、教育の自由化・個別化を目指して行われてきた。それは、「学校システムが個々の消費者に私的財を提供する」ということを目的として行われた改革だった。その流れの中にいわゆる「ゆとり教育」は位置付けられるものであり、その結果として「教育の広範な公的便益が浸食され」、公教育は崩壊したと考えられる。
 また、教育の自由化・個別化が目的とされ、教育を「私的財」として捉えられている状況では、「教育バウチャー制度」の導入は、格差の解消にはつながらず、格差を拡大する方向へと進んでいく。
 その理由は、教育バウチャーによる「脱出オプション」はラバリーが

 なぜ脱出オプションは学校を改善するうえで有効でないのか。それは、顧客を失っても学校の財政的基盤は必ずしも重大な脅威に晒されないからである。私立学校に子どもを通わせる親たちも、公立学校を維持するための税金を納めなければならない。したがって、彼らの子どもが転出すれば、公教育にかかる費用が減ることになるが、公教育を維持するための収入は減らない。子どもを郊外の公立学校に通わせるために市内から郊外に引っ越す親たちの場合の問題はもっと複雑であるが、その場合でも、財政上の損失からもとの学区を保護する緩衝装置がある。裕福な家庭が多数転居していけば、もとの学区の資産評価額が下落し、学校用の財産税収入も一時的に減少することになるだろう。しかし、二つの要因によって学校の総収入はこの変動の影響から保護されている。一つには、貧困な学区は通常、下落する資産評価額を埋め合わせるために教育税率を引き上げるからであり、もう一つには、地元の財政が著しく不十分な学区の学校に対しては、州が一般に補助金を交付することになっているからである。

 この帰結として、顧客が離れつつある学区が顧客を満足させるために実践を変えていくというインセンティブは、ほとんどないことになる。不満を持った顧客は、市場での伝統的なシグナルを送って不満を表明しているのだが、それが受けとめられることはない。というのも学校という組織が反応するのは政治的なシグナルに対してだけだからである。実際にはそうした生徒が出て行けば、当該学校システムは(費用の削減という財政上の利得だけでなく)政治的利益をも手にすることになる。なぜなら、出て行く家族は一般に自分たちの要求を実現するために意見表明する可能性の高い人たちだからである。したがって、このように生徒が減少する学区は、財政的な支えを失うことなしに、もっとも不満を表明しがちで、もっとも品質に対して関心の高い顧客から首尾よく解放されることになる。当然のことだが、この場合皮肉にも、脱出は、自由市場経済学の理論家の言い分とは違って、厳格な競争と迅速な改善が促進されるのではなくて、締まりのない自己満足と持続的な非効率状態がもたらされることになる。経済的にもっとも恵まれた顧客が脱出オプションを選べるということが、実質的には公教育の悪化を促進するということである。

と指摘しているように、学校改善にはつながらないからだ。また、教育を「私的財」と見なす傾向が強いために、税金を使って誰もが同じような教育を受けられるという状況が生まれることは、必ずしも賛同を得られない。教育バウチャーは、「私的財の獲得競争において有利な立場に立」とうと考えているものにとっては、その戦略を阻害するものであり、また逆に、その戦略のために税金を利用することができるという状況を生み出す。だから、教育格差の解消にはつながらない。
 教育格差の問題を考えるとき、忘れられていることがある。それは、「教育の公共性」についてだ。教育の公共性の根元は、公的な機関が運営するシステムだからではない。教育は私益のために存在するのではなく、公益のために存在するものだからだ。
 それは、教育によってある個人が様々なものを獲得する。そこで獲得したものは様々な形で社会へと還元される。還元された利益は、特定の個人やその周辺部にいる人たちだけが享受するものではなく、多くの人が享受するものだ。だからこそ、教育は公共性を帯び、そこに公的な資金などが投入される。
 教育に格差が生じることは、個人の利益を侵害するから問題なのではなく、教育の公益が侵害されるから問題なのだと考えるべき。教育格差を解消するためには、教育の公共性を取り戻すことが重要だ。そのためには、「脱出オプション」ではなく、ラバリーが言うように、資金も出し、口も出す。そうして教育を改善していくことが必要だ。