不安感とノスタルジー

 先日、「特別な空間と子どもたち」というのを書いて、debyu-boさんからトラックバックしていただいた。それに対するレスが大変遅くなってしまいました。すみません。
 debyu-boさんのエントリーやそれに対するコメントを読みながら、広田照幸氏が
 

教育 (思考のフロンティア)

教育 (思考のフロンティア)

で次のようなことを書いていたのを思い出した。

「予測不可能な他者」としての青少年を、あらためて秩序の中に包摂して、理解可能な存在(=無害な存在)にしようとする

 先日のエントリーで取りあげたような取り組みは、広田氏の言う「予測不可能な他者」としての青少年を、あらためて秩序の中に包摂して、理解可能な存在(=無害な存在)にしようとする」取り組みなのではないだろうか。大人たちは、子どもが「予測不可能な他者」であることに不安を感じている。その不安を解消するために、自分たちの規範や自分たちの経験を今の子どもたちにも通用するはずだと考え、その枠の中に子どもをはめ込もうとする。そうすることで子どもを「理解可能な存在」にし、自分たちの不安感を和らげようとしている。そういう取り組みなのではないだろうか。
 ノスタルジーに浸りながら「昔はよかった」というようなことを語るのは、子どもに対してではなく、不安感を抱いている自分を安心させるために、自分に語っているのではないか。果たして、そういう語りが子どもたちに届くのだろうか。子どもたちにとっては大人の独り言にしか見えないのではないだろうか。
 「昔はよかった」といって語られる教育論の多くは、教育を自分がよく知っているものへと戻すことでしかない。それは、様々な状況の変化も無視して、良かったあの頃へと戻そうということであり、それは、失敗を繰り返すことに等しい。
 沖津由紀 「「学力」をめぐる教育言説の変貌‐50年代「学力低下」期と70年代「落ちこぼれ」期の比較を通じて‐」 『日本教社会学会大会発表論文集』 第46巻 1994年 のなかで、沖津氏は次のように指摘している。

 すでに教育システム(教育言説)は過剰なほどに「子ども」へ、「子ども」の内面=「人格」へと向かいつつあるということである。もはやそこにしか活路を見いだせないかのように、教育システムは執拗に「子ども」の内面へ、その人格へとまなざしを向け、それをまさぐろうとしている。それは「子ども」にとって不幸なことであるだけでなく、教育システム自身にとっても不幸なことであろう。なぜなら「子ども」というパーソナリティ・システムの複雑性は、硬直化した教育システムの手に負える類のものではないと思われるからである。教育システムにとっての「子ども」は永遠にその手をすりぬける存在であり、それゆえに「子ども」を捉えきろうとする教育システムの試みはやはり悲痛なスローガンの域を出ることはないであろう。

 大人が「「予測不可能な他者」としての青少年を、あらためて秩序の中に包摂して、理解可能な存在(=無害な存在)にしようと」しても、「教育システムにとっての「子ども」は永遠にその手をすりぬける存在であり、それゆえに「子ども」を捉えきろうとする教育システムの試みはやはり悲痛なスローガンの域を出ることはない」だろう。