教育改悪推進会議は要らない

安倍氏、首相直属の「教育改革推進会議」設置を公約へ

 これまではあまり明確にしてこなかったが、私個人としては安倍氏の首相就任と彼の推進しようとしている教育改革には反対だ。安倍氏の行おうとしている教育改革は、政治がいつでも教育へと介入できる環境を整備すること、また、教育を通じて多様性を追求するのではなく、均質化を推進するものだ。
 教育を国家戦略に位置付けるというのは聞こえは良いが、その真の姿は国、政治が教育に介入の度合いを高めることにある。それは、http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20060623/1150992750で引用した佐貫浩氏の

 日本の場合、学校管理職によるマネージメントは、ただちに統制(の効率化)と結びつく性格を持っている。日本では「ガバナー」はまさに国家そのものであり、行政である。その性格は、一九六〇年代の学校経営近代化論が、教師への統制論として機能したことにも現れている。このような構造の下では、マネージメント効率、教師の業績競争は、ただちに権力支配への忠誠競争となり、官僚支配の方法となり、学校と教師の自由の剥奪となる。

につながるだけだ。
 また、安倍氏の教育改革は、長尾彰夫氏が

 わが国においては、共通の文化、共通のカリキュラム、共通の民族、共通の日本といった同質性(homogeneity)が暗黙のうちに前提され、肯定されている場合がしばしば見うけられる。そして暗黙の同質性を前提にした多様化は、それがいかに異質性(heterogeneity)を含むかにみせかけつつも、その実は単なる同質性のなかでの差異化にしか過ぎぬものになっていく。そしてそのような差異化は多様性が本来的にもっているダイナミズムを持つことができない。そればかりか、暗黙の同質性を前提にした単なる差異の一面的強調は、その前提としている同質性への目をくらませ、それへの批判を封じこめていくことにすらなっていく。

と指摘するような「暗黙の同質性を前提にした多様化」であり、「暗黙の同質性を前提にした単なる差異の一面的強調は、その前提としている同質性への目をくらませ、それへの批判を封じこめていく」ことになる。
 安倍氏は、イギリスのサッチャーが行ったような教育改革を理想としているようだ。しかし、彼が見ているのは、教育というフィールドの中で行われた政治闘争の部分であり、その政治闘争を果敢に挑んでいったサッチャー氏の姿を見ているだけ。安倍氏はその部分だけを見て理想だと考えているのではないか。
 繰り返しになるが、安倍氏の教育改革は教育に政治が介入することを容易にするものであり、それは、教育を硬直化させ、官僚化を推進するだけだ。そのような教育改悪には反対だし、そのための教育改悪推進会議など要らない。