脱出不能

 今、デイヴィッド・F・ラバリーの「脱出不能‐公共財としての公教育」という論文を読んでいる。読み終えた部分でその中から気になった部分をここに引用しておきたい。

 なぜ脱出オプションは学校を改善するうえで有効でないのか。それは、顧客を失っても学校の財政的基盤は必ずしも重大な脅威に晒されないからである。私立学校に子どもを通わせる親たちも、公立学校を維持するための税金を納めなければならない。したがって、彼らの子どもが転出すれば、公教育にかかる費用が減ることになるが、公教育を維持するための収入は減らない。子どもを郊外の公立学校に通わせるために市内から郊外に引っ越す親たちの場合の問題はもっと複雑であるが、その場合でも、財政上の損失からもとの学区を保護する緩衝装置がある。裕福な家庭が多数転居していけば、もとの学区の資産評価額が下落し、学校用の財産税収入も一時的に減少することになるだろう。しかし、二つの要因によって学校の総収入はこの変動の影響から保護されている。一つには、貧困な学区は通常、下落する資産評価額を埋め合わせるために教育税率を引き上げるからであり、もう一つには、地元の財政が著しく不十分な学区の学校に対しては、州が一般に補助金を交付することになっているからである。
 この帰結として、顧客が離れつつある学区が顧客を満足させるために実践を変えていくというインセンティブは、ほとんどないことになる。不満を持った顧客は、市場での伝統的なシグナルを送って不満を表明しているのだが、それが受けとめられることはない。というのも学校という組織が反応するのは政治的なシグナルに対してだけだからである。実際にはそうした生徒が出て行けば、当該学校システムは(費用の削減という財政上の利得だけでなく)政治的利益をも手にすることになる。なぜなら、出て行く家族は一般に自分たちの要求を実現するために意見表明する可能性の高い人たちだからである。したがって、このように生徒が減少する学区は、財政的な支えを失うことなしに、もっとも不満を表明しがちで、もっとも品質に対して関心の高い顧客から首尾よく解放されることになる。当然のことだが、この場合皮肉にも、脱出は、自由市場経済学の理論家の言い分とは違って、厳格な競争と迅速な改善が促進されるのではなくて、締まりのない自己満足と持続的な非効率状態がもたらされることになる。経済的にもっとも恵まれた顧客が脱出オプションを選べるということが、実質的には公教育の悪化を促進するということである。

 教育における公益は、個々の消費者の私益の総体には還元できない。というのは、私益を追求する個人を全部集めても、誰も他人の子どもの教育を省みようとすることにはならないからである。学校システムが個々の消費者に私的財を提供するという圧力に晒されているなら、すなわち、よい仕事や社会的地位や快適な生活といった私的財の獲得競争において有利な立場に立つ機会を提供するといった圧力に晒されているなら、そのときは、教育の広範な公的便益が浸食されることになろう。こうした消費者優先の学校システムは、教育経験を著しく階層化し、力のある消費者に対して、システムからの利益を勝ち取る機会を拡大することになるであろう。それは、教育システムを、勝者と敗者を作り出す選別・選抜メカニズムとしての性質の強いものにしていく。しかも、この場合、敗者がいるからこそ、勝つことに意味があるということになる。