評価することの意味を問う

和歌山の小学校 “抗議”で「通知表」再評価

 教師も保護者も評価するということの意味をどのように捉えているのだろうか。教師は厳しい評価こそ子どものためと考えているかもしれない。保護者は平等で公正な評価こそ子どものためだと考えているのかもしれない。その意識の差が今回の問題を引き起こした要因の一つではないか。
 このような問題が起きたのは、絶対評価(目標に準拠した評価)のマイナスの面が出たからだと考えることができる。しかし、それは解決できない問題ではない。教師はどのような方針で評価するのか、どういう基準で評価するのかを伝えること。子どもや保護者はその方針や評価基準に問題があると思えば意見を出す。そういう機会があればこの問題は起こらなかったのではないか。
 日本の学校だけに限ったことではないが、評価は最終的な「結果」があらわれたものだと捉えられている。そうではなく、評価はプロセスの「途中」なのだと捉えるべきだ。だから、通知表は、現時点における課題が何かを示したものであり、その善し悪しだけを見て子どもの学力や将来について判断することはできない。通知表にあらわされたことの意味を、教師と子どもと保護者とで話し合うこと。そして、これからどうすべきかを考えること。評価をするプロセスの中でそこをもっとも重視されなければいけない。
 この問題は、評価をすることの意味について考える良い機会になるのではないか。これを機会に評価について話をしてみたらどうだろうか。