教育の戻る場所は存在するのか

<私>の愛国心 (ちくま新書)

<私>の愛国心 (ちくま新書)

 この中で香山氏は次のように指摘している。

 (前略)新しい憲法制定を望んでいる人たちの多くも、日本社会がそれでがらりと変わることを願っているわけではない。彼らの心の中にあるのは、「今はおかしい。昔はよかった(はずだ)、でも、このままでは昔に戻れない。そのためには多少の革新や変化もやむなし」という思いであり、そのうちもっとも大掛かりなものが憲法だということにすぎない。
 新憲法のもとで起こりうるさまざまな現実的変化(たとえば徴兵制など)の可能性については、彼らは「そんなこと、あるわけない」と一言のもとに否定する。あくまで「変える=良い時代に戻る」ところにしか創造性が働かないのだ。しかも、その「良い時代」たるものが果たして実勢にあったのかと問うと、「司馬遼太郎池波正太郎が描いているような社会のことだ」とフィクションであるはずの歴史小説の名前があげられたりする。
 戻る場所もないのに、戻りたいという気分だけが強くなっている。そのためには、何かを大きく変えてまで戻る場所を作り、「ほら、最初からあったじゃないか」と確認しあって安心しなければならないのだ。まるで集団催眠をかけ合っているかのようだが、高まる憲法改革の機運の背景にあるのは、そういう状況なのだと思う。

 教育基本法改正論や教育批判論もこれと同じ。教育を変えれば、その良かった時代へと戻れる。そして、もっと良くなるのだと主張する。戻る場所もないのに、戻りたいという気分だけが強くなっている。そういう状況が教育基本法改正や教育批判の背景にもあるように思う。