英語で国際交流論について

■[教育][言語教育論]「英語で国際交流」って実はけっこう失礼なことじゃない???

 terracaoさんの記事を読みながら

カリキュラム・ポリティックス―現代の教育改革とナショナル・カリキュラム

カリキュラム・ポリティックス―現代の教育改革とナショナル・カリキュラム

の中の長尾彰夫氏の次のような指摘を思い出した。

 わが国においては、共通の文化、共通のカリキュラム、共通の民族、共通の日本といった同質性(homogeneity)が暗黙のうちに前提され、肯定されている場合がしばしば見うけられる。そして暗黙の同質性を前提にした多様化は、それがいかに異質性(heterogeneity)を含むかにみせかけつつも、その実は単なる同質性のなかでの差異化にしか過ぎぬものになっていく。そしてそのような差異化は多様性が本来的にもっているダイナミズムを持つことができない。そればかりか、暗黙の同質性を前提にした単なる差異の一面的強調は、その前提としている同質性への目をくらませ、それへの批判を封じこめていくことにすらなっていく。

 「英語で国際交流論」は、多様化ではなく、「単なる同質性のなかでの差異化」に過ぎない。だから、英語を学ぶことで他国についての理解を深めるのではなく、他国と自国との「差異」を強調するだけ。
 さらに、前にも少し書いたが、言語や文化が自分たちや他国の人たちにとってどのような意味をもつのかというようなことを考えたり、学ぶことをしないから、「同化主義」的な教育を外国籍の子どもたちへ何の躊躇も何の配慮もなく行ってしまう。
 「英語で国際交流論」は英語教育推進のための方便であり、そのような国際交流論は、逆に国際理解を妨げるものとなる。