なぜ「日本語」なのか

6割の外国籍小中学生が「授業の内容が分からない」(栃木)

 県内の小中学校に通う外国籍の児童・生徒の約6割が、日本語が分からないために授業内容が理解できないことがあることが、宇都宮大の調査で明らかになった。

 外国籍の子どもを教育するのになぜ日本語で日本の教員が教育をしなければならないのだろうか。外国籍の子どもを外国籍の教員が教育することがなぜできないのだろうか。
 記事によれば、

 日常会話は出来ても、授業や試験問題を理解するための「学習言語」が十分に身についていない子供が多いことが分かった。

という。外国籍の子どもが「学習言語」を十分に身に付けることが困難だと言うが、なぜ日本語の「学習言語」を身に付けなければならないのか。その子どもの母国語や公用語で教育を受けることができればそういう問題は起こらない。
 日本の学校で教育を受けている外国籍の子どもたちもいつかは母国に帰ることがある。そうしたときに、自国の言語や文化について未熟なままよく理解しないまま帰っていくことになる。そうしたときに困るのはその子自身だ。そういうことを考える必要はないのか。
 外国籍の子どもたちが日本の子どもたちと何もかも同じ扱いを受けるために、かえって外国籍の子どもたちの「学習言語」の未習得や学習の理解の低さが見えなくなることがある。そういう状況に置かれた外国籍の子どもが学校へ来なくなる場合もある。
 日本語でなくとも教育を受けられる。そういう環境を整えることが必要なのではないだろうか。

追記

 はてなブックマークで知ったterracaoさんの「共有基底言語能力仮説にかんする一考察」という記事。私の記事よりもこちらを読んで頂いた方が良いと思うのでリンクさせてもらいます。

追記

 はてなブックマークでyumizouさんがコメントされていることに関して少しだけ書いておきます。たしかに、私立で私が言うような環境があればそれを利用しても構わないと思います。しかし、どの外国籍の子どもたちも私立へ通わせることのできる家庭環境にあるとは限りません。そういうときにはどうしても公立の学校へ通うことになります。
 公立の学校にそういう環境が整備されることが期待できないとなれば、公立の学校へ通う以上は、低学力の問題があるとしても、日本語で日本の教師による教育を受けさせることになります。それは外国籍の子どもたちにとって大きな不利益となります。
 外国籍の子どもであっても教育をきちんと受けられる。そういう環境を公立の学校に用意されている。それは日本の子どもが外国に行って逆の立場になっても同じことです。ですから私立の学校だけに期待するのではなく、公立の学校にこそそういう環境が必要なのではないかと思います。

追記

 藤本久司 「イギリスのマイノリティ児童の教育 ――イコールオポチュニティとマイノリティサポート」というのを見つけたのでリンクしておきます。

追記

 日本人の子どもが海外で生活し、そこで教育を受ける場合、アメリカでもイギリスでも何らかの公的・私的な支援を受けることができる。しかし、日本では外国籍の子どもへの公的・私的な支援はほとんど整備されていない。一つには外国籍の子どもたちの問題が顕在化していない(そういう子どもの数が少ないということだけではなく、そういう子どもの存在が意識されていない)こと。他国と比較すると日本では、日本語を学ばせる、日本語の教育を受けさせることが当然視されていることなどが背景にあり、問題が問題として捉えられていない。
 また、外国籍の子どもへの教育はその子どもの母国が責任を持つべきというのは、欧米諸国ではそういう主張はあまり見られない。
 現在はこの問題は大きな問題として意識されていないが、これからグローバル化が進めば大きな問題となってくる。
 外国籍の子どもへの教育は決してその子どもたちだけの問題とは捉えるべきではないと思う。terracaoさんが指摘されているように、「権利としての言語」の視点や、外国籍の児童のドロップアウトを避けるという安全保障の観点(「問題としての言語」)、(英語以外の)バイリンガルの人材を育てるという人的資源の観点(「資源としての言語」)」など様々な面からこの問題は考えるべきだ。これからもこの問題は考えていきたい。