こういう時代だからこそ

 学習指導要領 一般編(試案) 昭和22年より引用

 いまわが国の教育はこれまでとちがった方向にむかって進んでいる。この方向がどんな方向をとり,どんなふうのあらわれを見せているかということは,もはやだれの胸にもそれと感ぜられていることと思う。このようなあらわれのうちでいちばんたいせつだと思われることは,これまでとかく上の方からきめて与えられたことを,どこまでもそのとおりに実行するといった画一的な傾きのあったのが,こんどはむしろ下の方からみんなの力で,いろいろと,作りあげて行くようになって来たということである。
 これまでの教育では,その内容を中央できめると,それをどんなところでも,どんな児童にも一様にあてはめて行こうとした。だからどうしてもいわゆる画一的になって,教育の実際の場での創意や工夫がなされる余地がなかった。このようなことは,教育の実際にいろいろな不合理をもたらし,教育の生気をそぐようなことになった。たとえば,四月のはじめには,どこでも桜の花のことをおしえるようにきめられたために,あるところでは花はとっくに散ってしまったのに,それをおしえなくてはならないし,あるところではまだつぼみのかたい桜の木をながめながら花のことをおしえなくてはならない,といったようなことさえあった。また都会の児童も,山の中の児童も,そのまわりの状態のちがいなどにおかまいなく同じことを教えられるといった不合理なこともあった。しかもそのようなやり方は,教育の現場で指導にあたる教師の立場を,機械的なものにしてしまって,自分の創意や工夫の力を失わせ,ために教育に生き生きした動きを少なくするようなことになり,時には教師の考えを,あてがわれたことを型どおりにおしえておけばよい,といった気持におとしいれ,ほんとうに生きた指導をしようとする心持を失わせるようなこともあったのである。
 もちろん教育に一定の目標があることは事実である。また一つの骨組みに従って行くことを要求されていることも事実である。しかしそういう目標に達するためには,その骨組みに従いながらも,その地域の社会の特性や,学校の施設の実情やさらに児童の特性に応じて,それぞれの現場でそれらの事情にぴったりした内容を考え,その方法を工夫してこそよく行くのであって,ただあてがわれた型のとおりにやるのでは,かえって目的を達するに遠くなるのである。またそういう工夫があってこそ,生きた教師の働きが求められるのであって,型のとおりにやるのなら教師は機械にすぎない。そのために熱意が失われがちになるのは当然といわなければならない。これからの教育が,ほんとうに民主的な国民を育てあげて行こうとするならば,まずこのような点から改められなくてはなるまい。このために,直接に児童に接してその育成の任に当たる教師は,よくそれぞれの地域の社会の特性を見てとり,児童を知って,たえず教育の内容についても,方法についても工夫をこらして,これを適切なものにして,教育の目的を達するように努めなくてはなるまい。いまこの祖国の新しい出発に際して教育の負っている責任の重大であることは,いやしくも,教育者たるものの,だれもが痛感しているところである。われわれは児童を愛し,社会を愛し,国を愛し,そしてりっぱな国民をそだてあげて,世界の文化の発展につくそうとする望みを胸において,あらんかぎりの努力をささげなくてはならない。そのためにまずわれわれの教壇生活をこのようにして充実し,われわれの力で日本の教育をりっぱなものにして行くことがなによりたいせつなのではないだろうか。

 教育基本法の改正、教員免許の更新制導入が行われようとしている。そういう状況の中で、引用した文の中で語られていることは見失われている。引用したこの文を読むと、戦後間もない時代の熱意などが伝わってくる。押しつけの愛国心や形だけの信頼回復策などではなく、「われわれは児童を愛し,社会を愛し,国を愛し,そしてりっぱな国民をそだてあげて,世界の文化の発展につくそうとする望みを胸において,あらんかぎりの努力をささげなくてはならない。そのためにまずわれわれの教壇生活をこのようにして充実し,われわれの力で日本の教育をりっぱなものにして行くことがなによりたいせつ」なのではないだろうか。