1947年3月19日 帝国議会貴族院本会議の議事録より

 以下、議事録より引用。

○澤田牛麿君 只今上程になつて居りまする教育基本法と云ふものは、私共は實に數年貴族院に列して居りまするけれども、初めて會つた珍しい法案であります、仍て一言疑問のある所を申述べて御答辯を得たいと思ひます、結論から端的に申しますと、此の法案は法案ぢやなくて、説法ではないかと私は思ひます、説教ではないかと思ひます、法律と道徳との分野は、是は私が喋々する迄もなく決つて居ることでありまして、倫理の講義や國民の心得などと云ふことを一々法律で規定する必要はなからうと思ひます、それよりはもつと法律と云ふものは進んで居るものと私は法學生の一人として思ふのであります、さう云ふ點に付て此の立案者は非常に倫理の講義が好きな傾向を持つて居るやうでありまするが、さう迄にしなくちやならぬものであらうか、此の教育基本法と云ふものには殆ど法としての必要な規定はないやうに思ふ、(拍手)先づ必要であると思へば、第四條の義務教育は九箇年、それから第六條の、勝手に學校を建てちやいけない、法律で學校を建てることを禁止して居る、此の條項が先づ必要と思ふのでありまするが、義務教育九年と云ふことは、學校教育法と云ふのが別に出ると云ふのだから、それに書けば宜いことである、それから法律で學校を勝手に建てちやいけぬと云ふ禁止は、是は果してどんなものであらうか、自由主義に反するものではなからうかと思ふ、それから第八條に特定の政黨を支持してはいけない、第九條に特定の宗教の活動をしてはいけない、斯う云ふことがありますが、是等も法的の性質を持つものでありまするが、是は併し隨分禁止的な事柄であつて、自由主義とか、或は活動とかと云ふやうな點から言へば寧ろ是はちよつと考へ物ぢやないか、是が基本法と言ふことはどう云ふ所にあるのであるか、私はそれを疑ふのであります、それから各條共さう云ふ點に付ては疑問がありまするが、時間が極めて短かうございますから、私は短くやる積りでありますから詳しくは申しませぬが、例へば第四條に義務教育、是もをかしいのですが、第何條とある下に括弧して表題が何か意味が分らないけれども、書いてある、是は今迄の立法の例にないことでありまするが、どう云ふことで斯う云ふことが出來たのでありまするか、今後の立法には斯う云ふ括弧をした表題みたいなものを條文の下にくつ附けるのでありませうか、實に奇怪な形式だと思ふのであります、それは括弧のことですが、第四條に義務教育と云ふことを書いて、第六條に學校教育と云ふことを書いて居る、さうすると、義務教育九年と云ふことは、學校教育と別のことであらうか、甚だをかしい、第六條に學校教育とあることがあれば、第四條はもうそれで義務教育と云ふものは、學校での教育に違ひないのであるから、第四條と第六條との間は觀念が非常に混雜して居るやうに思ふのであります、それから色々ありまするけれども、順序を餘り立てずに質問を申すのですが、「第一條教育の目的」、是は先程佐々木博士も言はれましたが、教育の目的などと云ふことは教育學か何かの理論であつて、教育は、例へば人格を養成するとか、或は此の代の文明を次の代に移し行く爲のプロセスであるとか、色々な學説があるでせうが、そんなことは何も法律で決めなくても、學説で決めれば宜いのであつて、又色色の説き方があるので面白いのであつて、教育の目的なんと云ふことを法律で決めることは私は無理だと思ふ、是は法律の規定の範圍外だと思ふのでありますが、まあ決めるにしても、先程文部大臣も眞善美とか云ふことを言はれましたが、美は拔けて居ります、第一條にある眞理、是が眞でせう、正義、是が善でせう、眞善を唱へて美は拔けて居る、美がなければ人間社會は極めて殺伐なもので、是は最も大事なことが此處に拔けて居るのぢやなからうかと私は思ふ、それから「個人の價値」と云ふことを謳つて居る、「個人の價値」と云ふことは非常にむつかしいことですが、「個性ゆたかな」と云ふことは是は形容詞であつて、決して法規の性質を持つて居ない、又文句の使ひやうも第一條には、「自主的精神」と云ふことを書き、第二條には「自発的精神」と云ふことを書いてある、自主的精神と自發的精神とどう違ふのであるか、是も能く分らぬ、それから教育の目的はあらゆる場所に於て實現されなければならぬ、教育の目的をあらゆる場所に於て實現すると云ふことはどう云ふことを意味するのであるか、法律の規定としては、説教ならばどうでも宜いが、法律の規定としては甚だどうも掴へ所がない、分らぬことである、それからまだ色々ありますが、全體的とか、全體の責任とか云ふことを頻りに言ふ、全體主義と云ふことは此の頃非常に惡いことになつて居つて、滅多に全體主義と云ふことを言ふととんでもない結果を來すことになるのぢやないか、それに此の法律に頻りに全體に責任を負ふとか、國民全體が責任を負ふとか、全體の奉仕者とか、大變此の立法者は全體主義が好きな御方ぢやないか、さうすると是はどうも危險思想と言はざるを得ない、(笑聲起る)、それから先程文部大臣の御答辯で‥‥法律の文句でないが、保守反動と云ふことを教育勅語に關して仰せられたが、保守反動と云ふやうなことは或種の極端な左翼の人が使ふ言葉であつて、之を現内閣の大臣が、而も文部大臣が保守反動などと云ふ御言葉を御使ひになると云ふやうなことは甚だ私共了解に苦しむ所である、それから第十條には、「國民全体に対し直接に責任を負つて行わるべきものである。」教育が一體直接に責任を負つて行はれると云ふことは、どう云ふこと指すのか、どうも法の規定として私には分らぬ、それから教育は不當な支配に服するものではないと云ふ規定でありますが、不當な支配に服するものではないと云ふことは教育ばかりではない、總ての政治なり、總ての行政なりは不當な支配に服するものではないのであります、獨り教育が不當な支配に服するものでないと云ふことを書く必要がどこにあるか、不當な支配と云ふことは總てに於て否定さるべきことである、それから第十一條の此の基本法を實行する爲には必要な場合には適當な法令が制定されなければならぬ、此の法律命令の區別に付てはさつき佐々木博士が言はれたから私は言ひませぬが、必要のある場合に適當な法令が制定されることは當り前で、必要ない時に法令が制定せられた時に初めて議論があることである、「必要がある場合には、適当な法令が制定されなければならない。」と云ふことを法律で規定する必要がどこにあるか、斯く論じて來ますと、此の基本法の第十一條迄の中、殆んど變挺なものばかりである、唯内容を持つて居るものは、第四條、第六條と第八條の第二項、第九條の第二項、是だけが法的の性質を持つて居るものである、併し是は學校に關する法律が別に出るのだから其の中に書き込めば宜い、さうすると此の基本法と云ふものは全然要らないのではないか、又餘計なものではないか、(拍手)、又斯う云ふ説法をしなければ日本人が教育に付て分らぬと云ふことならば、それは餘りに日本人を侮辱した言葉である、斯う云ふ説教をしなくても、教育の大事なこと位は日本人は知つて居ると思ふ、如何にしても此の基本法と云ふものは私共には了解出來ない、此の點に付て金森國務大臣なり、文部大臣なり、どなたでも宜しうございますが、法律と云ふことに付ての觀念に付て答辯を願ひたい、憲法の審議の際でも私は此の議論を述べたのでありまするが、其の時は金森國務大臣の御答辯は、憲法と云ふものは宣言、或は其の主義と云ふやうなことを言つても宜いのだ、單に法規と云ふ所謂ノルムを規定するのみでなくて、一種の宣言、一種の理想を述べても宜いものであると云ふ御答辯でありましたが、成る程憲法と云ふものは、稍稍政治的の分子が非常に多いものであるから、或は空言、空理、空想、理想を述べてもそれは宜いかも知れぬけれども、苟も法律となつて、的確な法規を定むべき一つの形式となつてはそんなに空理、空論を述べて居るものではないと思ふ、私は其の説法をすると云ふことは甚だ國民を侮辱したことであると思ふ、文部大臣も是は宣言であると言はれ、或は理念であると言はれた、宣言とか理念と云ふものは内閣總理大臣の演説でも宜しいし、教育勅語に代りたいと思ふならば、新憲法に依つて大變偉くなつて來た總理大臣が居るから、其の總理大臣が演説をすればそれで宜しい、法律で以てさう云ふことを決めなければならぬと云ふことは何處にあるのであるか、それは私は日本國民を侮辱した觀念ではないかと、甚だ其の點に付て疑を持つのであります(拍手)
  〔國務大臣金森徳次郎君登壇〕

○國務大臣(金森徳次郎君) 只今澤田議員よりして、此の教育基本法全體の大部分が、法律を以て定むることを適當としないやうなことで出來て居るのではないか、從つて法律と云ふものに嵌るべき事柄に付ての意見を御質しになつた譯であります、私は此の教育基本法の實質的な方面に付きましては、今日未だ深い研究を致して居りませぬ、それで今の一般的に斯樣な法律が出來ることが疑はしいではないかと云ふことに付きましての御答をするのでありまするが、澤田議員が仰せになりましたやうに、法律で決めて然るべき範圍と、さうでないものの範圍とは自ら分野があるものと存じて居ります、併し此の教育のことは國民に委して置けば宜い、各人の判斷又は學問に委して置けば宜いと云ふ御所見に對しましては、若しも世の中の秩序が非常に安定し、各人の考の大體が歸一して居ると云ふのでありますれば、確かに其の御考は尤もであらうと思ふのであります、各人の判斷に總てを委して置いて宜いものであるならば、國家的にそれを統一する理由はない、斯う存じて居ります、併し現在の非常な過渡期に於きまして、國民の考は一人々々に多少の差別を持つて居りまして、國が之に對しまして或限度の基本方針を樹立して進むと云ふことは、理論は姑く別と致しましても、實際の效果の上から申しまして、是は已むに已まれない所の必然性を具へて居る所であらうと存じます、唯仰せになりましたやうに、教育の目的が何であるか、教育の方針が如何にあるべきかと云ふことは、是は實際世の中に生き生きとして存在して居りまする所の學問とか、人々の識見に委すると云ふことが宜いと云ふことは私は全く左樣に存じて居ります、併しどうしても或限度の基本的なことだけを調整して行くと云ふことは是は已むを得ないのでありまして、澤田さんが仰せになりましたやうに、斯う云ふ色々な制限を加ふれば、事に依ると國民の自由を妨げる、斯う云ふ風の御話がありました、私自身の考としては教育に付て若干の項目を決めますることは、理論的に言へば、國民の個人の自由を妨げるものであります、教育の方針を立てると云ふことは個人が自由に伸びて行く、學問の獨立を保障しやう、良心の獨立を保障しやうと云ふこととそこに接觸する問題を生じて來るのであります、併しそれは個人の自由は尊重すると云ふ建前を保存しながらも、國家が教育と云ふ一つの面に於きまして、或然るべき範圍の基本方針を立てて之を以て導いて行きますることは、必ずしも個人の自由を害する譯ではありませぬ、そこに微妙なる接觸面が起つて來るのでありまするが故に、之を一人々々の學説やら教育家の所見に委するのではなく、國民全般の全く共同一致したる得心に基いて方針を樹立して行くと云ふことが一番然るべきことのやうに思ひまして、此の教育基本法の中味は色々の御意見はありませうけれども、大體の狙ひは、多少混沌として居る部分を國民の共同意識、謂はば國民の代表者に依つて現されて居りまする所の全國民の納得を基本として、實行上然るべき基準を規律して行かうと云ふことでありまするが政に、先づ大體の見地から申しまして、國の法律として定めると云ふことが、餘り程度を越えさへしなければ然るべきことのやうに存じて居ります、是は其の程度の適當なる範圍内に屬するものと存じて居ります
  〔國務大臣高橋誠一郎君登壇〕

○國務大臣(高橋誠一郎君) 只今金森國務大臣から御答辯のございましたやうに、今日の場合、殊に先程一言致しましたやうに、教育勅語の捧讀が廢されて居りまする際、一部に於きましては、又國民の可なり大きな部分に於きましては、思想昏迷を來して居りまして、適從する所を知らぬと云ふやうな、状態にあります際に於きまして、法律の形を以て教育の本來の目的其の他を規定致しますることは、極めて必要なことではないかと考へたのであります、思想が安定致し、殊に一代の大思想家、大教育家と稱せられるべき者が現はれまして、何人も之に從ふやうな大指針が、方針が定められて居りますならば格別でございますが、なかなか斯くの如き者が現はれないと致しまするならば、暫く法律の影を以て教育の目的、其の外を規定致すことが必要ではないかと斯樣に考へまして、本案を立案した次第でございます、尚又字句の點に於きまして、色々御質問がございましたのでありまするが、例へば「第六條(学校教育)」述べてありまする所と、「第四條(義務教育)」と記されて居りまする所と、其の相違は何處にあるかと云ふやうな御質問、又一方は必要ではないと云ふやうな御意見に伺つたのでありまするが、第四條に於きましては、國民の義務教育に付て述べた所のものでありまするが、「第六條(学校教育)」と記しました所では、學校の性格、教員の身分と云つたやうなものが記されて居るのでありまして、必ずしも兩條同樣のものではないと考へて居るのであります、それから尚第十條「教育は、不当な支配に服することなく、」云々とありまするのは、是迄に於きまして、或は超國家主義的な、或は軍國主義的なものに動かされると云ふやうなことがあつたものでありまするからして、此の點を特に規定したものであります、今囘新たにせられました所の憲法、改正せられました所の憲法の精神に則りまして、此の教育基本法が制定せられたのでありまして、憲法の改正せられました今日、矢張り此の教育方面に於ても此の法案を出しますることが刻下の必要であると考へた次第でございます

○澤田牛麿君 御答辯に對しては一切不滿でございますが、後は議論になりますから、私の質問は是で打切ります