居場所のない社会

 朝日新聞が6月24日付の社説で奈良の事件について書いている。朝日新聞は「逃げ場はなかったのか」と言っている。その子どもたちの「逃げ場」や「居場所」は今無くなりつつある。
 その「逃げ場」や「居場所」を奪ってきたのは他でもない「社会」だ。この事件を少年や家族の問題へと矮小化する動きが強いが、この問題の要因は社会の不寛容さと他者を受容することをしなくなった社会。個人の責任を際限なく拡大し、責任を負担し合わなくなった社会にあるのではないか。
 学力が低い、ニートになる。それだけで将来は真っ暗だと言い、そうなるなと怒鳴り続ける。そうならないためには自分で何とかしろと言う。そこから逃げだそうとしたり、逃げ出してしまうと元に戻ることが絶望的なほど困難になる。子どもは先に進めば進むほど圧力を受け、そこから逃げることもまたできなくなっている。そうして、外部で逃げ場を失い、自己の内部に逃げ込もうとすると、そこまで手を突っ込んで引っ張り出される。それを拒否すると病気だと言って拒否することも許されない。
 また、このような事件が起こると今時の子どもはとか、何々世代はなどと嘲笑の目を向け、侮蔑の言葉を浴びせかけ、自分はそれとは違うんだと区別し、自分を安全なところに避難させる。そして、さらに批判する。
 あまりにも極端な言い方をしたが、社会が担うべき責任や社会の問題を個人の責任や個人の問題に矮小化することをやめるべきではないか。そうしなければ、問題は解決しないまま同じことが何度も繰り返される。