事件の真相は闇のままに

 秋田の事件が連日放送されている。マスコミは様々な情報を収集し、競うように流し続けている。しかし、それは事件の真相に迫るための作業というより、事件を個人化・個別化・特殊化していく作業のように見える。
 個人の生育歴を殊更に取りあげて丹念に追っていく。個人の生育歴は多くの人と共通する部分はあるかもしれないが、大部分は個人によって異なる。それは当然のこと。生育歴を辿っても見えてくるのはその人個人の姿でしかない。それは、その人の特徴を明らかにするかもしれないが、特殊性も強調される。特殊な人による奇異な事件だという印象を情報の受け手に与える。
 また、「心の闇」という言葉に象徴されるように、心理面を丹念に分析していく。それもまた同じように、事件をその人固有の問題だと認識させることになる。マスコミは事件を個人の問題、個別の問題へとすり替えていくことに多大な貢献をしている。
 その一方でマスコミは事件の問題を一般化しようとする。その良い例が数年前に言われた「17歳問題」だ。事件の特殊性などを強調しながら、「17歳問題」として17歳の子どもたちを一括りにし、全員がそうであるかのように問題を一般化していく。
 それは、逆に個別の問題を見えなくし、個別の問題への対処を遅らせ、阻害することになる。学校におけるいわゆる「こころの教育」にそういう例をいくつも見ることができる。
 マスコミに代表されるようなこういう傾向は、排除と同調を推進する。個人はひとたび何か起これば排除の対象となるし、その一方で周囲への同調が強調される。同調を強いられる集団からの離脱や排除におびえ、その集団にいることで安心している。その集団からはみ出たものは自分とは異なるのだと、様々な手段を通じてそれを探し出して安心している。そういう作業によって闇は闇のまま、そこに光が当たることはない。