文章題と子どもの読解力
先日の
http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20060509/1147164306
というエントリーに少し補足しておきたい。
あの時、これは読解力の低下と言えるのかと述べた理由を書いていきたい。
- 子どもは決められた手順で解くことを重視するので、文章題を算数の演算課題として捉えて解答する傾向があること。
- 文章題の表現と計算式が一致するときほど正答率が高くなる。
1人あたり7本の鉛筆を5人にあげました。全部で鉛筆は何本ですか
という元の問題文を
5人に鉛筆をそれぞれ7本ずつあげました。全部で鉛筆は何本ですか。
というように変えたとき、子どもの正答率がおそらく変化するだろう。その時に影響しているのは、文章題の「読解力」という要因ではなく、最初に挙げたようなことが要因となっていると考えられる。それは、
「1人あたり7本の鉛筆を5人にあげました。全部で鉛筆は何本ですか」という問い。「1×7」にしてしまって、5人をどう計算すればいいか分からない
というところに現れている。
もしも、正答率が低い理由を「読解力」にあると考えるならば、その読解力とは、「与えられた文章題を、演算式と表現が一致するように子どもが文章題の表現を変換する能力」と考えられる。ここで求められている「読解力」は、単なる読み書きの能力ではない。
なぜ「与えられた文章題を、演算式と表現が一致するように子どもが文章題の表現を変換する能力」としての読解力が育成されないのか。佐伯胖氏は『「わかる」ということの意味』の中で、
子どもたちは学校では「答えを出す」ということを、何かしら「正しい手順」に従ってとり行う厳粛な儀式のように考えてしまいがちです。授業では、どういう種類の「問題」のときは、どのような「答えの出し方」に従った“儀式”をとり行うべきか、まず、その模範を「例題」で示されます。そこで“儀式”の執行に当たっての注意すべきところが説明され、そのあとは、「応用問題」や「演算問題」で、儀式の練習をするだけです。
算数の「文章題」も、本来ならば「足す」とか「引く」とかの演算操作の本当の意味を、現実の問題状況の中で考えさせるというところに主眼があるべきでしょう。ところが、多くの場合、「文章題」の文章は、私たちが日常用いる文章とは異質の、いかにも奇妙な文章であり、まともに「文章から意味を引き出そう」などと考えるとわけがわからなくなります。いわゆる「文章題」とは、「答えの出し方」という儀式(計算のしかた)がきまっていて、それを先におぼえ込んだ人が、自分がどの儀式をとり行うべきかを決めるキイ・ワードが必要最小限に埋め込まれた「文章」なのです。
と述べている。ここで言う「読解力」が育成されない理由は算数の指導にあるのではないか。
文章題の正答率が低いのは、読み書きの能力としての「読解力」や「国語力」の低下ではなく、「与えられた文章題を、演算式と表現が一致するように子どもが文章題の表現を変換する能力」を育成するような指導ができていないからではないか。文章題の正答率が低いのを狭い意味の「読解力」の低下として捉えるのは少し短絡的なのではないだろうか。
「読解力」を「国語力」とし、それは「国語科」で育成するものと狭い意味で捉えてしまうために、算数や数学で必要となる「読解力」の育成が十分に行われていないように思う。