批判的なまなざし

メダカでも

 KOYASUさんが、

 さて本題の一言は、書店で新刊本を眺めていて思ったこと。やはり、今、教育課程や授業づくりで重要なことは「批判的まなざし」の存在だということ。それが決定的だと思った、ということだ。
 活動的にとか、チョーク&トークではなくてとか、子ども同士のつながりをとか、そういう本を立ち読みしながら、それらが要素として必要だと思ったが、教えようとする内容を批判的に捉える眼差しだけがそこに欠けている場合、すべては無に帰していく。紹介されている実践が何とも虚しいものに見えて残念であった。

ということを述べられている。なぜ「批判的なまなざし」が欠落するのかその理由を少し考えてみたい。
 例えば、以前このブログで小学校の英語の活動で

例えば6年生は、社会科で日本の歴史を学んで一番偉いと思った人を各自で挙げた。織田信長豊臣秀吉足利義満紫式部伊能忠敬福沢諭吉など時代が近い人を組み合わせ、グループで人物を選択。2人のうちどちらが偉いかを、絵や劇も使って簡単な英語でディベートした。

という内容の記事を紹介し、批判的なことを書いた。また、「水からの伝言」という書籍からヒントを得た授業などが様々なところで批判されている。
 これらに共通するのは、「批判的なまなざし」の欠落だ。なぜそのような視点が欠落するのか。その理由は、二つとも取りあげた内容は子どもの興味を惹いたりといったことのための「手段」として選択されていること。また、それを取りあげた教師はその題材の持つ政治性や思想的なものとか、科学的なものを見ているのではなく、その先にあるもの、英語のディベートの方は、英語を使ったコミュニケーションを、水からの伝言を題材にした授業は、道徳を子どもに学ばせることが目的であり、教師はそこに着目し題材を選択している。しかし、繰り返しになるがそこには「批判的なまなざし」が欠落しているためにその題材の持つ政治性や非科学性などに気が付いていない。
 最近は特にそうだが授業の「技術的な面」ばかりを強調して、「内容面」には以前にも増して無関心、無頓着になっているようだ。例えば、総合的な学習の時間がうまくいかないのは総合的な学習の持つ曖昧さや思想の問題だけでなく、教師の視点が授業の技術面だけに向いてしまったために、「内容」ではなく、「活動」が重視され、「目的」と「活動」が混同されたことも大きかった。
 内容面への関心が薄れていくと、内容を手段として捉えてしまう。そこで選択されるのは、教師が子どもに学ばせたいものをより効果的に子どもに伝えてくれる「メディア」としての内容だ。
 「批判的なまなざし」の欠落がはっきりと見えるのは「総合的な学習の時間」や「食育」などで、「批判的なまなざし」が欠如しているために「ステレオタイプ」な見方や考え方を再生産している。それは、子どもにとって視点を狭められることであり、社会にとって有益なことではない。